折角《せっかく》のこのK――の夏を見棄て周章《あわて》て、東京に帰るにも及ぶまい、という気持と、それにこのサナトリウムが学友の父の経営になっている、という心安さから、結局、医者つきのアパートにでもいる気になってこの一夏はここの入院生活で過すつもりでいた。
(行ってみようかな)
 もう体も大丈夫、と友人の父である院長にいわれた彼は、好きな時間に散歩に出ることが出来た。
 彼は、うんと幅の広い経木《きょうぎ》の帽子をかぶると、浴衣《ゆかた》に下駄をつっかけて、サナトリウムの門を抜け、ゆっくり、日蔭《ひかげ》の多い生垣《いけがき》の道を海岸の方に歩いて行った。
 軈《やが》て、生垣がとだえると、ものものしく名の刻まれた一|間《けん》ばかりの石橋を渡る――そこから右に折れればY海岸が、目の下にさっと展《ひら》けるのだ。
 鷺太郎は、その小高い丘の上に立って、びっくりするほど変貌した海岸の様子に眼を見張っていた。
 蒼空の下《もと》、繰りひろげられた海岸の風景は、なんと華やかな極彩色な眺めであったろう。まるで百花撩乱のお花畑のような、ペンキ塗りの玩具箱《おもちゃばこ》をひっくり返したような、青春
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