カンテラを頼りに、帰路についた。
 山鹿は、あの「気がついてみると、前方を慥《たしか》に白服の男とあの少女との二人が歩いていた――」といった鷺太郎の言葉が、なぜかひどく気にかかると見えて、
『ね白藤さん、いったいその二人は、どの辺から来ましたかね……』
 とか、
『どんな様子でした、その男は――』
 とか、執拗《しつこ》いまでに、訊くのであった。鷺太郎は、
『いや――、さあ、どの辺だったかな……、でも二人いたのは慥《たしか》ですよ』
 と軽く、面倒臭げに答え乍《なが》ら、心の中では、
(やっぱり、山鹿の奴は怪しい……)
 と、一緒に、
(見ろ、その中《うち》、その高慢な鼻を、叩き折ってやる――)
 と歓声を挙げたい優越を感じていた。
 ――鷺太郎が相手にならないので、いつか山鹿も黙ってしまうと、二人は黙々として、細い絶入りそうなカンテラのゆれる灯影《ほかげ》を頼りに、夜路を歩きつづけていた。
 と、突然、
『あっ!』
 山鹿が、彼に似合《にあわ》ぬ魂消《たまげ》るような叫びをあげると、ガタンとカンテラを取り落した。
 はっ、とした瞬間、真暗になった路の上を、カンテラが、がらんがらんと転がる音がした。
 鷺太郎は、反射的に、生垣にぴったり身をすりつけて、構えながら息をこらした。……が、あたりには、なんの音もしなかった。
『どした――』
 呶鳴《どな》るようにいうと、
『が、蛾だ、蛾だ』
 その声は、この夏だというのに、想像も出来ぬほど、寒《さ》む寒《ざ》むとした嗄《しわが》れた声だった。
『蛾――?』
 鷺太郎は、唖気《あっけ》にとられてききかえした。
『なんだ、蛾がそんなに怕《こわ》いのか――』
 袂《たもと》をまさぐって、マッチを擦ると、転がったカンテラを拾って火を移した。
 その、ボーッと明るんだ光の中に、山鹿が、日頃の高慢と、皮肉とを、まるで忘れ果たように、赤ン坊の泣顔のような歪《ゆが》んだ顔をして、一生懸命、カンテラの火を慕って飛んで来たらしい蛾が、右手にとまったと見えて、まるで皮がむけてしまいはせぬか、と思われるほど、ごしごし、ごしごしと着物にこすりつけて拭いていた。
 暫らく鷺太郎は、その狂気|染《じみ》た山鹿十介の様子をぽかんと見詰めていたが、軈《やが》て、山鹿はほと溜息をつくと、尚もいまいましげに、右手の甲をカンテラに翳《かざ》しみてから、いくらか気まり悪そうに、干《ひ》からびた声でぼそぼそと、弁解じみた独りごとをいい出した。
『……どうもねえ、白藤さん、どうも僕はこの蛾とか蝶とかいうのが、世の中の何よりも恐《おそ》ろしくてねえ……だれだって、そら、人にもよるけれど蛇がこわいとか、蜘蛛《くも》が怕いとか、芋虫をみると気が遠くなるとかいうけれど、僕にとって、蛾や蝶ほど怕い、恐ろしいものはないんですよ……そうでしょう。誰にだって、怕いものはあるでしょう……』
『そうですね、僕――僕にとっちゃ、まあ、悪いことを悪いと思わぬ奴が一番こわいがなァ』
 山鹿は、その白藤の皮肉じみた言葉にも気づかぬように、可笑《おか》しなことには、まだ胸をどきどきと昂《たか》まらせながら、
『そうなんです。誰だって、心底から怕いものを一つは持っているんですけど、僕の場合、それが、あの蝶や蛾の類なんです。蛇や蜘蛛は、寧《むし》ろ、愛すべき小動物としか思いませんけど、これはどうも、そうはいきません、蛾――蛾――と思うと、もう不可《いけ》ないんです。斯《こ》う頭の芯がシーンと冷めたくなって、まるで瘧《おこり》のように、ぶるぶる顫《ふる》えてしまうんですからね、まったく、子供だましみたいな話なんですけど、僕はこの恐怖のために、どんなに苦しんだか知れません――一度はあのブルキ細工の蝶の玩具《おもちゃ》を買って来て、自分を馴らそうとしたんですけど、それでも駄目なんです。あのブルキの蝶が、極彩色のなんともいえぬ、いやな縞《しま》をもった大袈裟な羽根を、ばたばた、ばたばたと煽ると、もうどうにも我慢がならんのです。あの毒々しい色をもった鱗粉《りんぷん》というやつが、そこら一面にまき散らされるような気がしましてね。僕にとっちゃあの鱗粉という奴が、劇薬よりも恐ろしいんです。子供の時分、あの鱗粉が手についた為に、そこら一面、火ぶくれのようになって、痛みくるしんだ、苦い経験をもっていますよ。体質的にも、蝶や蛾は禁忌症《きんきしょう》なんで、それがこの強い恐怖の原因らしいんです……つまりは』
『へえ、そんなことがあるもんですかね、蛾は兎《と》も角《かく》としても、蝶々なんか実に綺麗な、可愛いいもんじゃないですか、尤《もっと》も掴《つか》めばそりゃ恰度《ちょうど》あの写し絵のように黄だの、黒だの縞《しま》が、手につきますけどね――』
『ああ、それが僕にはたまらんのです。
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