――あの猛獣のような毛に覆われた胴は、なんていったらいいでしょう。それにあのくるくると巻かれた口、あの口は慥《たしか》にこの世のものではありません。あれは悪魔の口です、恐ろしい因果を捲込《まきこ》んだ口なんですよ』
 そういうと、この歩き廻《まわ》って、ねとねとと汗の浮く真夏の夜だというのに、寒《さ》むそうに肩を窄《すぼ》めて、ぶるっと身顫《みぶる》いをすると、恰度《ちょうど》眼の前に来た分れみちのところで、鷺太郎から渡されたカンテラを、怖る怖る、つまむようにして受取り、「さよなら」ともいわずに、すたすたと暗《やみ》の中に消えてしまった。別れてから気がついたのだが、さっきの騒ぎで落してしまったものか、その山鹿のうしろ姿は、釣竿をかついでいなかった。

      五

 鷺太郎は、サナトリウムの通用口から這入《はい》って、医局の廊下を通ろうとすると、こんな夜更けだというのに、まだ電燈があかあかと点けられ、何か話しごえがしていた。
(何かあったのかな――)
 と思いながら、通りすぎようとすると、後《うしろ》から、
『白藤君――』
 と呼止められた。振返ると、そこには院長|沢村《さわむら》氏の息《そく》、学友の沢村|春生《はるお》が、にこにこ笑いながら立っていた。
『や、しばらく、どうしたい』
『どうした、じゃないよ。病人がこの夜更けにどこを迂路《うろ》ついてんだ、困るね――』
『はっははは、ここは居心地がいいから居てやるんだ、僕はもう病人じゃないぞ――』
『それがいかんのさ。治ったと思って遊びすぎると、直ぐぶりかえす――、殊《こと》に夜遊びなんか穏かでないぞ』
『冗、冗談いうなよ、変に気を廻すなんて、君こそ穏かでないよ』
『ははは、まあ、入りたまえ、僕も休暇をとったんで、見舞いがてら来たんだ、東京は熱気で沸騰してるよ』
 医局へ這入《はい》ると、副院長の畔柳《くろやなぎ》博士が廊下の会話を聞いていたと見えて、にやにやと笑っていた。
『今晩は――、どうかしたんですか』
『いや、三十三号の患者が喀血《やっ》たんでね、呼ばれて来たら、春生さんがあんた[#「あんた」に傍点]を待ってた訳さ』
『ほう、もういいんですか――』
『うん、落着いたようだ、――君もあんまり無理しない方がいいよ』
『そうじゃないんですよ、弱ったなあ、――僕のは重大事件でしてね、実は、又あのZ海岸で人殺しがあったんです』
『ほう、又――』
 畔柳博士も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、あれと同じ兇器で、同じように美しい少女なんです、殺《や》られたのは――。そこへまた私が通り合せて発見者という訳で、今まで色々訊かれましてね。
 ――でも、その死顔は実に綺麗だったですねえ、美少女が海岸の雑草の中に折れ朽ちたように寝、胸には匕首がささっているんですが、光線の不足で適当にぼかされて、少しも酷《むごた》らしくないんです。そして、そのつんと鼻の高い横顔を、蛍がぼーっ、ぼーっと蒼白い光りで照すんですが、それがまるで美しい絵を見ているような気がしましたよ』
『ほう、ばかに感心してるね、君のリーベのように綺麗だったかい』
『まさか、ははは』
『ふーん、で君は、それが誰にやられたのか知っているのかい――』
『いいや、知らんよ、警察でさえ、解らんのだもん――でもこの前のと関係があることは、素人にもわかる、というのは、いまいったように兇器が同一種類であり、手口も酷似しているからね、いつも、乳房の下を、心臓までまっすぐに一と突きだ』
『ふーん、君。僕にはじめから詳しく話してくれないか』
 春生は椅子を鳴らして、乗出して来た。
 鷺太郎は、
(そうそう、春生は探偵小説を愛読していたな――)
 と憶《おも》い出《だ》しながら、
『じゃ、こういう訳だ、最初の事件は、君ももうアウトライン位は新聞で知っているだろうけど、あの七月十日の海岸開きの日だ。
 Y海岸が河童共《かっぱども》のごった返している最中に、ええと、瑠美子、とかいったな、大井という実業家の長女だ、それが海岸で冷えた体を砂の上で暖めていて、気がついてみると、誰も知らぬ間に、胸に匕首を突刺されていた、という訳なんだ。――不思議なことには、当時、誰もその傍《そば》へはいなかったし、彼女は非常な美人だったから、注目の的になっていたから、これはハッキリいえることだ、又彼女には自殺するような動機も、原因もない。つまり殺されたということになるのだが、それでは一体どうして殺されたのか。
 最初に妹がいって見て、どうも様子が変なので、頓狂《とんきょう》な声を出したんだから、そばにいた学生が馳つけて、脈をみると、既に止っている。そしてワーッと集まった野次馬の前で、その俯伏《うつぶせ》になっていたのを起してみると、その今いった匕首
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