下にくり展げられて、これが昼間であったならば、どんなにか素晴らしい眺めであろうと思われた。が、今は陽も既に落ちて、うすら明りの中に、薄墨を流したような、襞《ひだ》を持った海が、ふっくら[#「ふっくら」に傍点]と湛《たた》えられ、空には早くも滲出《にじみで》た星が、次第にうるみを拭ってキラキラと輝きはじめていた。
 然《しか》し、その素的《すてき》な眺望にも増して、私の眼を欹《そばだ》たせたのはその八畳と四畳半の二間きりの亭《ちん》のような小住宅《こじゅうたく》に、どうして引上げられたのか、見事な黒光りをもったピアノが一台、まるで王者のように傲然《ごうぜん》と君臨している様であった。
『自炊をされているんですか――』
 やがて私は、一向に台所道具が眼につかないので訊いてみた。
『いや、町の仕出屋から三度三度とっているんですよ……、それも此処《ここ》が不便なもんですから出前の小僧の奴に月三円のコンミッションを約束させられたという曰くがあるんですが、でもここなら幾ら日がな一日、ピアノを叩いていようと、大声で唄っていようと、一向気兼ねがありませんからね』
『まったく、うまいところがあったもんで
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