《まぶ》しげに顔を外向《そむ》けて苦笑いをし、
『どうぞ、どうぞ……』
 といい乍《なが》ら、楽譜の反古《ほご》を掻分《かきわ》けて僅かばかりの席をつくってくれたが、
『いや、いいんですよ。今|一寸《ちょっと》用があるんで、又来ますから、……これをお返しに来たんです、じゃ、また晩にでも……』
 私は懐中電燈を置くと、わざと座敷の中から眼を外《そ》らして何んにも見なかったように、さも忙しそうに、早々と崖を下《お》りはじめた。なんだか、彼の一ヶ年の苦心を一瞬にぶち[#「ぶち」に傍点]壊してしまった心の苦悶が、特に私にだけよく解るような気がし肉親の苦しみを見るような、胸の痛みを覚えたのであった。
 ――それっきり、彼は黄昏《たそがれ》の散歩にも現われなかった。それを心配して私は二三度彼の家を訪ねて見たが、昼も夜も、いつも春日は不在であった。そして、何時か私の足も遠のいてしまった。
 ――その中《うち》に、私の借りている別荘を管理している植木屋の口から、太郎岬の一軒家にいる変り者の男が、何を思ったのか、近頃しきりと、この町からバスの通じている隣り町まで行き、そこの私娼窟《ししょうくつ》にせっせ
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