部が使われたり、甚《はなはだ》しいのになると、その儘《まま》、又はテンポだけ違えて新しいもののように、使われたりしてしまうのです。どうですお解りでしょう、それで僕は、すべての場合のメロディを、総《すべ》ての場合のテンポで著作権をとってやろうと考えたんですよ……、だから僕はすべての流行歌を分析し演繹し、帰納しようとかかっているんです』
 男は猶《なお》も熱して、その奇妙な話を続けた。
『あなたは「都々逸《どどいつ》」が採譜《さいふ》の出来ないことを知っていられますか、謡曲も採譜が出来ません、あれは耳から耳へ伝わっている曲で、同じ「ア」という音《おん》を引伸ばしながら、微妙な音の高低があるんです。ですから「都々逸」をピアノで弾くとしてご覧なさい、実におかしなものですよ、そう思って聴けばそうも聞える、といった程度のものしか再現出来ないのです。これはピアノには半音しかないということが、その原因の第一だと思われます、だから私はその微妙なメロディを採りいれる為に、四分音を弾けるピアノを特に作ったんですよ……』
 彼はそういい乍《なが》ら、つと立ってピアノの鍵盤を開けた。なるほどそこには白いキーと、黒いキーと、も一つ、緑色《りょくしょく》に塗られたキーとが、重なりあって、羊羹箱《ようかんばこ》を並べたように艶々《つやつや》と並んでい、見馴れぬせいか、ひどく奇異な感じを与えていた。
 ――私は、先刻《さっき》から、このなんとも批評の仕様もない、狂気染《きちがいじ》みた夢物語に、半ば唖然《あぜん》として、眼ばかりぱちぱちさせていた。
 軈《やが》て、
『どうです、あなたはどう思いますか』
 その男は、覗込《のぞきこ》むように、私の顔を見上げた。
『なるほど……、よくわかりました、しかし、そういってはなん[#「なん」に傍点]ですが、あなたの努力は、結局は無駄じゃないんでしょうか』
『無駄――。駄目だというんですね、ナゼ、なぜですか』
 彼は、眼を光らせて私のそばに膝を寄せて来た。その膝は気のせいか、かすかに顫《ふる》えていた。
『いや、駄目だというのではありません、でも、非常に困難なものだろうと思うんです。流行歌の分析と組立てというのは、大変に面白いのですが、しかし、こういう話があるんですよ、今、日本で切実に求められているのはゴムです、人造ゴムの製法ですよ、それでそれを専門に研究している人が沢山にいるそうですが、どうもうまく行かんそうです、それはゴムを分析して、ゴムを形成している元素に分析して、斯《こ》うでなければならぬ、という十分の化学式を発見《みつけ》ます。それは既に発見られたのです、だから、その化学式を満足させるようなものを合成すればいい訳ですが、ところが化学式には「弾力」というものが表わせません、ゴムの生命ともいっていい弾力が表わせないんです、それが合成して目出度《めでた》く出来上ったものは、一見ゴムみたいなものでありながら、弾力のない、くだらぬものでしかなかった、という、まあそんな訳ですが、失礼ですが、あなたの場合、音譜に「音色《ねいろ》」というものが表わせるでしょうか「音色」という弾力を、マキシマムに発揮しなければ、その流行歌は人の心を、芯底から搏《う》つものとは思われませんね。
 また、流行歌に限らず、私は「流行」というものにはひどい疑惑をもっているんです、流行というのは、恰度《ちょうど》恋愛みたいなもので、その時は最上無二のように思われるんですが、さて、あとから見てどうでしょう……』
『君』
 その男は、激しく私の言葉を遮った。
『君、しかし誰が僕の作曲した歌を唄うと思っているんですか、僕が、僕がすべてを抛《なげう》ってこんなに苦しみ通しているのは誰の為にだと思うんです、彼女、彼女のために、ですよ、彼女は実に素晴らしい声を持っているんですぜ、その合成ゴムに於《お》ける弾力とかいう奴を、彼女は十二分に持っているんです……全然、あなたの危惧《きぐ》ですよ、
 僕がすべてを抛って悔まぬ彼女、それは、最近だいぶ方々《ほうぼう》に名が出て来たようですが、非常に素質のいいステージシンガーです、――レコードにも相当吹きこんだようですから、或《あるい》は知っていられるかも知れません――、秋本ネネという、まだ二十歳《はたち》の女ですが』
『えッ』
 私は愕然《がくぜん》とした。まったく、その時は、自分でも顔色がサッと変ったのを意識した――。私を、こんな失意の底に投込んでしまったその女、ネネが、この変屈者の愛人であるとは……。
 然《しか》し、そうすると、今、木島と同棲《どうせい》している彼女は、私と同様、矢張りこの男のことをも忘れてしまったのであろうか。
(渡り鳥のようなネネ!)
 私は眼をつぶった。そして、
(そうかも知れぬ)
 と、口の中で呟《
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