『やあ――』
 私も、すらすらと返事をして、こっくり頭を下げた。だがその次の言葉が、私を驚かせた。
『失礼ですが、あなたはツベルクローゼじゃありませんか』
 私は、
『え』
 と詰って、
『まさか、――私が肺病に見えますか』
 と、聊《いさ》さか憤然《むっ》として答えた。
『や、そうですか、失礼失礼……。どうも今頃、あなたのような青年が、こんな淋しい海岸に来てぶらぶらしていると、どうもそんな気がしましてね……、若《も》しそうだったら私の経験したいい方法をお知らせしようと思ったもんですから……』
 その男は、ひどく恐縮したようにいった。
『肺病じゃないですが、でも、胸のやまいですよ、女という病菌の……』
 と、冗談にまぎらして、私は彼を恐縮から救った。それはその男の持つ、何処《どこ》となく異状な雰囲気に、疾《と》うから好奇心を持っていたからであったろうし、又、話し相手を欲しいと思っていた気持が、つい、そういわせたのかも知れない。
『おやおや、そりゃ顕微鏡じゃなくて、望遠鏡を持って来たいような病菌ですね。その病菌は色々な症状を呈しますよ、発熱したり衰弱したり、遂には命をとられたりするのもね、……その病気については、私も経験がありますよ、私も』
 そういって、その男は、最初の失言を訂正するように、
『あはははは……』
 と笑った。そして、
『その為に、僕もこんな淋しい忘れられた町に来たっていう訳ですよ――』
『ほほう、同病ですか、あなたも……』
 私も彼の軽い口に、すっかり気が溶けて、いつか肩を並べて渚を歩いていた。今日も海風《かいふう》は相当に強く、時々言葉が吹きとばされることがあったが、漸《ようや》く夕焼もうすれ、すすめられる儘《まま》に、太郎岬の上にある、という彼の家を訪れることを決心した。それは、
『僕は医科をやったんですが、今は彼女のために、総《すべ》てを抛《なげう》って手馴れぬ作曲に熱中しているんですよ……』
 といった言葉が、ひどく私の好奇心を唆《そそっ》たからであった。

      二

 その男の家は、太郎岬の上の、ぽつん[#「ぽつん」に傍点]とした一軒家であった。
 其処《そこ》まで登るには、細いザラザラした砂岩を削ってつけられた危なっかしい小径《こみち》を、うねうねと登って行くのであるがしかし、さて登り切って見ると、其処《そこ》からは相模湾が一望の下にくり展げられて、これが昼間であったならば、どんなにか素晴らしい眺めであろうと思われた。が、今は陽も既に落ちて、うすら明りの中に、薄墨を流したような、襞《ひだ》を持った海が、ふっくら[#「ふっくら」に傍点]と湛《たた》えられ、空には早くも滲出《にじみで》た星が、次第にうるみを拭ってキラキラと輝きはじめていた。
 然《しか》し、その素的《すてき》な眺望にも増して、私の眼を欹《そばだ》たせたのはその八畳と四畳半の二間きりの亭《ちん》のような小住宅《こじゅうたく》に、どうして引上げられたのか、見事な黒光りをもったピアノが一台、まるで王者のように傲然《ごうぜん》と君臨している様であった。
『自炊をされているんですか――』
 やがて私は、一向に台所道具が眼につかないので訊いてみた。
『いや、町の仕出屋から三度三度とっているんですよ……、それも此処《ここ》が不便なもんですから出前の小僧の奴に月三円のコンミッションを約束させられたという曰くがあるんですが、でもここなら幾ら日がな一日、ピアノを叩いていようと、大声で唄っていようと、一向気兼ねがありませんからね』
『まったく、うまいところがあったもんですね』
 と、私は無意味に合槌《あいづち》を打って、
『で、もう大分作曲されましたか』
『いや、もうそろそろ一年が来ますが、まだ序の口にも達しませんよ』
『へえ、たいしたもんですね、なんですか、シンフォニーですか』
『いやいや、ただの流行歌ですよ――』
 思わず唖気《あっけ》にとられた私は、その男の顔を見かえした。
 ところが、その男は、至極《しごく》真面目な顔をしていうのであった。
『流行歌です、――流行歌ですが、僕のはありふれた流行歌ではないんです。必ずヒットしなければならぬ、という論理的に割出された曲なんですよ……
 流行歌の数《すう》は、実に夥《おびただ》しいものです。しかしその結果、どこかで使われたメロディが、他の歌にちょいちょい出て来ます(これはあなたも既にお気づきでしょうが)それはそうなるべきで、人間の声に限度があり、テンポにも制限があるとすれば、いつかは作曲も、殊に流行歌なんてものはメロディが割に単純なもんだから、じきに種切れになるわけじゃないでしょうか、だから、流行歌のようなものには、他で一度ヒットしたメロディが、屡々《しばしば》、編曲という名で現われたり、或はその一
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