腐った蜉蝣
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黄昏《たそがれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)讃美|渇仰《かつごう》される

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》
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      一

 黄昏《たそがれ》――その、ほのぼのとした夕靄《ゆうもや》が、地肌からわき騰《のぼ》って来る時間になると、私は何かしら凝乎《じっ》としてはいられなくなるのであった。
 殊《こと》にその日が、カラリと晴れた明るい日であったならば猶更《なおさら》のこと、恋猫のように気がせかせかとして、とても家の中に籠《こも》ってなぞいることは出来なかった。さも、そのあたりに昼の名残《なごり》が落ちているような、そして、それを捜しまわるように、ただ訳もなく家を出、あてどない道を歩いて行くのだ。
 ――その当時、私は太平洋の海岸線に沿った、小さな町にいた。自分から、あの華やかな「東京」を見棄《みすて》てこんなネオンライト一つない町に、進んで来たわけではなかったが、医者に相当ひどい神経衰弱だ、といわれたのを機会《しお》に、失恋の東京から、暫《しばら》く遠ざかるのもよかろうと、小別荘を借りて移って来たのだ。
 東京との交渉は、月の下旬に、老いた母の手を通して送られて来る、生活費に添えられた手紙と、それに対する私の簡単な返事とだけであった。汽車に乗れば、たった二時間たらずの処《ところ》でありながら、それ以上の交渉を、わざと執《と》ろうとはしなかった。それは東京の何処《どこ》かに、ネネ(ああ、私は今でも、曾《か》つて恋人と呼んだ彼女の姿体《すがた》をハッキリと思い出すことが出来る、しかし、それも、不図《ふと》女優などの顔を思い出した時のような、妙に期待めいたものは寸毫《すんごう》もなく、狂おしくも無慙《むざん》な、苦しみを伴なった思い出なのではあるが……)そのネネが、新しき情人、木島《きじま》三郎と、親しく暮しているであろうことを思うと、それだけで東京全体が、ひどく穢《けがら》わしく淫《みだ》らがましく、酸ッぱいものが咽喉《のど》の奥にこみ上って来るのだ。
(それを忘れるまで、東京へは帰るまい……)
 私は、そう思っていた。そう思って東京を棄て、まだ春も浅い、さびれた海岸町に来たのだ。
 だが、忘れようと、焦慮《あせ》れば焦慮るほど、私はあのネネの、真綿で造られた人形のような、柔かい曲線に包まれた肉体を想い出し、キリキリと胸に刺込む痛みを覚えるのだ。黄昏になると、殊にその誘惑がひどくなる。
 その上、糸の切れた凧のようなその日その日であったせいか灯ともし頃になると、どうしても凝乎《じっ》としてはいられなくなって、あてもない道を、まだ肌寒い風に吹き送られ乍《なが》ら、防風の砂丘を越えて、野良犬のように迂路《うろ》つき廻るのであった。
 時には潮の引いた堅い砂の上を、すたすたと歩き、或《あるい》は檣《マスト》のように渚に突立って、黝《くろ》みゆく水平線のこんもり膨《ふく》れた背を、瞬きを忘れて見詰め、或は又、右手《めて》の太郎岬《たろうみさき》の林を染めている幽《かすか》な茜《あかね》に、少女のような感傷を覚えたり、さては疲れ果て、骸骨《がいこつ》のような流木に腰を下し、砂に潜った足先に感ずる余熱の温りを慈しみ、ざざあ、ざざあ、と鳴る単調な汐の音に、こと新しく聞き入るのであった。
 さて、そんな、ひどく無為のうちに、心の落著かぬ日を、この海岸に来て一ト月余りも過した時であろうか。
 その黄昏の散歩の時に、何時《いつ》とはなく、一人の男が現われて来たのだ。
 その男は、盲縞《めくらじま》のつかれた袷《あわせ》に、無造作に帯を巻きつけ、蓬《よもぎ》のような頭の髪《け》を海風《かいふう》に逆立たせて、そのせいか、際立って頬骨《ほほぼね》の目立つ顔を持った痩身《そうしん》の男であった。
 尤《もっと》も、考えてみれば、私がその男に気づいたのは、散歩に出た最初の時からであったらしく、それが、いつもこの男も私と同じ時刻に、海岸を散歩するものと見えて、人ッ子一人いないこの海岸に、彼の蹌踉《そうろう》とした姿のあることだけが、さもあたりまえのように、知らず知らず思われていたのだ。
『やあ――』
 はじめに口を切ったのは、その男であった。それは十年も前からの友人に、ふと[#「ふと」に傍点]道で往《ゆ》きあった時のような、極《ご》く自然な言葉であった。尠《すくな》くとも、私にはそう感じられた。それは全然の初対面という訳ではなく、前からの顔見知りだったせいかも知れない――。それで、

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