つぶや》いた。
三
『何を驚かれたのです、あなたは、ネネをご存知なのですか……』
その哀れな男は、不安そうに眉《まゆ》を寄せると、じっ[#「じっ」に傍点]と私の顔を覗込《のぞきこ》んだ。
『………』
しばらく躊躇《ためら》ったけれど、本当のことをいってしまう以外に、私の驚きの意味を、この男に呑込ませることは出来まいと思った。
『驚きました、驚きましたよ、そのネネという女に、この私も恋をしたのです』
『え、ネネに――。で、どうでした。ネネはあなたに何んといいました?』
『ふっふふふ……私が、こんな淋しい町に一人ぽっちで神経衰弱を養いに来ていることで十分おわかりでしょう』
『そうですか、あなたは失恋したのですね、お気の毒ですが――。でも、悪く思わないで下さい。ネネには僕と前からの約束があったんですから……』
男は、かすかに現われた安堵の表情を、強いて隠すように嗄《か》すれた小声でいった。
だが、私は眼をつぶって、
『いや、ネネは結婚したんです――』
『えッ』
その男の驚きの声が、いきなり私の眼をつぶった耳元でした。それはハッハッというような、激しい呼吸の音と一緒であった。
そして、「まさか……冗談でしょう」といいたげな彼の気持を、十分に感じた私は、猶《なお》も眼をつぶった儘、二三度頭を振って、
『結婚したんですよ、本当に――。その為に私は失恋《ふら》れたんです。ご存知かも知れません、木島三郎という男のところへ行ったのです』
『ああ、木島。東洋劇場の支配人……だった』
『そうです。若くて、金があって、しかもいい地位にいる、あの男です。私は残念ながら、ネネを最後まで満足させることが出来なかったんです、ネネは大勢の人々に讃美|渇仰《かつごう》される為には、何物も惜しまぬ女ですからね。ネネは例えば心の底では一人の男を愛してはいても、それが守って行けない女なのです。彼女は本当に都会の泡沫《あわ》の中から現われた美しい蜉蝣《かげろう》ですよ、ネネは、その僅《わず》かな青春のうちに、最も多くの人から注目されたい、という、どの女にもあるその気持を、特に多分に、露骨に持っただけなんですね。
あの、華やかなスポットライトに浮び出た彼女の厚いドーラン化粧の下にも、その焦燥が痛々しく窺《うかが》われるではありませんか。私はその気持を、ネネの撓《たゆ》まぬ向上心だと思って愛しました。しかし、彼女は、私が仕得《しえ》られるだけのことをして、どうにか世の中に出したかと思うと、すぐ次へ移って行ったんです、あの大劇場の支配人だという木島のところへ――。あの男の地位は、ネネにとって大変役立つことに違いありません、だから、ネネにとっては、私などよりも、ずっとずっと強い吸引力を持つその地位に引かれて行ったのも、考えてみれば無理からぬことなのですけど、でも、お羞《はず》かしいことには、とり残された私は、神経衰弱になってしまったというわけなんです――』
思わず饒舌《じょうぜつ》に、さも悟ったかのように、そういった私は、ここで笑って見せねばならぬ、と知ったが、わずかに片頬《かたほほ》が痙攣《けいれん》したように歪《ゆが》んだきりであった。
『そうですか――』
しばらく経って、その男は重たげに顔を上げた。その額《ひたい》には、この世のものとも思われぬ、激しい苦悩のたて皺《じわ》が刻込《きざみこ》まれ、強いて怺《こら》える息使いと一緒に、眼尻から顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にかけての薄い皮膚がぴくぴくと顫《ふる》え、突然気がついたようにタバコをつけると、スパスパと咽喉《のど》を鳴らして吸った。
『そうですか、ネネは、ネネはもう僕を忘れてしまったのですね……僕はネネの為に、囚人のような生活を苦しみつづけて来たのだけれど、ネネはそれを待っていてはくれなかったのだ、
同じ女を愛し、そして、その女から飛去られた二人が、偶然に邂《めぐ》り合うとは……』
其処《そこ》で二人は、無意味に、
『ふふふふ……』
と笑合《わらいあ》ったが、それもすぐに杜絶《とだ》えてしまった。
深閑とした部屋の中に、天井から蜘蛛《くも》のようにぶら下った電球《たま》の下で、この哀れな二人の男は、不自然に向き合った儘《まま》黙々として畳の目を睨《にら》み、タバコをふかしていた。
それぞれの胸の中には、あのネネの姿体《したい》が様々なかたちで浮《うか》び出《いで》、流れ去っていた。
が、そればかりではなく、私はこの偶然な邂逅《かいこう》という宿命的な出来事に、ひどく搏《う》たれてしまったのだ。そして、この寂しい部屋の中にまで響いて来る風の音、潮のさわぎまでが何かしら宿命的な韻律をもって結ばれているのではないか、と疑われて来るのであった。夜の更けたせ
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