いか、一瞬、寒む寒むとしたものを感じた私は、ほっと重い溜息《ためいき》を落したのと共に、鈍い音をたてた柱時計に気がついた。
『――じゃ、失礼します、どうも大変お邪魔してしまって……』
嗄《しわが》れた咽喉《のど》から咳払《せきばら》いと一緒にいった。
『おや、そうですか』
そういって、その男も気がついたように上げた顔は、思わずドキンとするほどの殺気を持って歪んでいた。その血ばしった眼、心もち紅潮させた蒼黒い皮膚の下には、悪鬼の血潮が脈々と波打っているかのようであった。
私はその時確かに彼の周囲に慄然《ゾッ》とするような鬼気を感じた。
(この私でさえ、あの時は一思いにネネを殺して自分も死のうか、とすら思ったのだから)
と、この男が、今|抱《いだ》いているであろう血腥《ちなまぐさ》い想像の姿が私にはアリアリと写るのであった。
そして又、気の弱い私には、到頭《とうとう》それは実行出来なかったけれど、この、狂気染みた男なら、或はそれをやってのけるかも知れない、というありそうな怖れに、思わず胸の鼓動がどきどきと昂《たか》まって来るのであった。
そしてそれが、このネネを囲んだ三人の間の、宿命なのかも知れぬ、とすら思われた。
――然し、その男は、思ったより落著いた口調で、
『や、どうも遅くまで引止めてしまって、却《かえ》って済みませんでしたね、もうお休みですか――』
と、ゆっくりいって、淋しく笑った。
『いや――、どうも近頃少しも寝られなくて閉口しているんですよ』
私も、さり気なく答えて、又タバコを咥《くわ》えた。
『そうですか、それは困りますね、こういう薬があるんですが、飲んでみませんか、よく利きますよ』
そういうと、その男は、机の抽斗《ひきだし》から名刺を出して、その裏に、すらすらと処方を書いてくれた。受取って表《おも》てをかえして見ると、そこには「医師、春日行彦《かすがゆきひこ》」とあった。
私は彼から懐中電燈を借りると、危なっかしい小径《こみち》を分けて、町へ帰って来ながら、まだ起きていた一軒の薬局へ寄って、
『この薬をくれたまえ――』
といってから、
『この薬の中には毒になるようなものはないね』
と確《たしか》め、
『ございません、神経衰弱の薬として、立派な処方と思います』
そういった薬剤師の言葉に、あのゾッとするような顔は、ネネ一人に向けられたものだったのか、と頷《うなず》かれた。
尤《もっと》も、私は遂に、その薬には手をつけず、アダリンの売薬を買って済まして仕舞ったのだが……。
四
翌日。私は昨夜借りて帰った懐中電燈を返すのを口実に、春日の家へ行って見た。
行ったのは、もうお午《ひる》をまわっていたが、勝手口のところには、疾《と》うに冷め切った味噌汁《おみおつけ》を入れた琺瑯《ほうろう》の壜《びん》と一緒に、朝食と昼食の二食分が、手もつけられずに置かれてあるのを見、
(留守かな――)
とも思ったが、案外、彼はすぐ声に応じて出て来た。
『ゆうべは失礼しました』
『いや、僕こそ、……どうぞ上って下さい』
私は、何気なく上ろうとして、一眼《ひとめ》で見渡せるこの家の中の、余りの乱雑さに、思わず足が止ってしまった。
その、二間だけの座敷全体には、ずたずたに引裂かれた楽譜や五線紙が、暴風雨《あらし》の跡のように撒《ま》きちらかされ、そればかりではなく、あの高価らしい漆黒《しっこく》のピアノまでが、真ン中から鉈《なた》でも打込んだように、二つにへし[#「へし」に傍点]折れているのであった。
春日は、眩《まぶ》しげに顔を外向《そむ》けて苦笑いをし、
『どうぞ、どうぞ……』
といい乍《なが》ら、楽譜の反古《ほご》を掻分《かきわ》けて僅かばかりの席をつくってくれたが、
『いや、いいんですよ。今|一寸《ちょっと》用があるんで、又来ますから、……これをお返しに来たんです、じゃ、また晩にでも……』
私は懐中電燈を置くと、わざと座敷の中から眼を外《そ》らして何んにも見なかったように、さも忙しそうに、早々と崖を下《お》りはじめた。なんだか、彼の一ヶ年の苦心を一瞬にぶち[#「ぶち」に傍点]壊してしまった心の苦悶が、特に私にだけよく解るような気がし肉親の苦しみを見るような、胸の痛みを覚えたのであった。
――それっきり、彼は黄昏《たそがれ》の散歩にも現われなかった。それを心配して私は二三度彼の家を訪ねて見たが、昼も夜も、いつも春日は不在であった。そして、何時か私の足も遠のいてしまった。
――その中《うち》に、私の借りている別荘を管理している植木屋の口から、太郎岬の一軒家にいる変り者の男が、何を思ったのか、近頃しきりと、この町からバスの通じている隣り町まで行き、そこの私娼窟《ししょうくつ》にせっせ
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