は聞いたが、既に約束したという公演も、疾《と》うに過ぎてしまったのに、更にネネの影も見えぬというのは、一寸《ちょっと》待ち呆けのような気もするが、しかしそれと同時に、心の底にはたまらない皮肉な嗤《わら》いがこみ上って来るのだ。寧《むし》ろ、ネネが春日のところへ来る位なら、一っそ、木島のところにいた方が面白い――。それが私の本心であった。
 復讐と同時に、ネネの歓心を購《か》ったと信じ、必ず帰って来ると高言し哄笑した春日の尖った顔が、ざまァ見ろ、とばかり、私の胸の中で快よく罵倒《ばとう》され尽すのだ。
      ×
 ――秋もふかまるにつれて、漸《ようや》く繁くなった帰京を促す手紙に、私もいつかその気になって来た。
 久しぶりに、あのねっとり[#「ねっとり」に傍点]とした都会の空気を吸ってみたくなった。……それから……ネネの其後《そのご》の消息も尋ねたい……そう思うと、私はすぐに帰京を決心した。
 私が、春日にも告げず、帰京したのは、キメの細かい濃密な霧のある日であった。
(もう、こんな気候になったのだ……)
 駅のプラットホームを歩きながら、不図《ふと》そう呟いて仰向いた時、ポンと肩を叩くものがあった。
『やあ、どうしたい――』
 振返って見ると、同級生だった友野《ともの》が、にやにやしながら立っていた。
『しばらくだったなァ、勤めたのかい』
『うん』
 友野は、少しばかり反身《そりみ》になって、胸のバッチを示した。そこには帝国新聞の社章が、霧に濡れて、鈍く、私の無為徒食《むいとしょく》を嗤《あざわら》うようにくっついていた。
『君は』
『……病気をしちゃってね、やっと今、海岸を引上げて来たんだ……ふっふっふっ』
『そりゃいけない、少し痩せたかな……』
『そうかしら……お茶でも飲もうか……仕事は何をやってんだい』
『学芸部さ……でもなかなか忙しいぜ』
 友野は、忙しいというのを誇るようにいった。そして、駅前の喫茶店に這入《はい》って、さて、コーヒーを注文してから、
『東洋劇場は何をやっているんだ、今――』
『ええと……』
 友野は一寸眼を俯《ふ》せると、すぐすらすらと出し物をいった。しかし、その中にはネネの名はなかった。
『秋本ネネ……というのはどうしたね』
 私は恐る恐る、それでも、思わず胸をときめかせ乍ら訊いた。
『ああ、あれはね……、変な話があるんだ、というのはやまい[#「やまい」に傍点]なんだよ、そのやまい[#「やまい」に傍点]も、一寸人にはいえん、という奴でね、話によると、東京の医者は顔を知られてるから駄目だというんで、わざわざ埼玉の方の小さい開業医のところへ名を変えて通っている――っていう話だ、人気者も亦《また》つらいね』
 友野は、タバコの煙と一緒に、それだけを排出《はきだ》すと、愉快そうに笑った。
 私はコーヒーをがぶがぶと飲んで、やっと、
『うん、うん』
 と頷《うなず》いた。そして
『……ああいう人気者は蜉蝣《かげろう》だね、だから僅《わず》かな青春のうちに、巨大な羽ばたきをしようと焦慮《あせ》るんだ――ね』
『それで、もう腐ってしまった、というんかい、あははは……』
 だが、私は笑えなかった。
 私の持っていた、幽《かす》かな、ほんとに幽かなロマンチズムも既に悉《ことごと》く壊滅し去ってしまったのだ。
 あの、卑猥《ひわい》な牝豚《めすぶた》のような花子に培《つちか》われた細菌が、春日、木島、そしてネネと、一つずつの物語を残しながら、暴風のように荒して行った痕跡《あと》に、顔を外向《そむ》けずにはいられなかった。
(春日の馬鹿野郎!)
 私は大声で、夕暮の、潤んだ灯《ともしび》の這入《はい》った霧の街の中をそう呶鳴《どな》って廻りたかった。
 急に顔色をかえた私に、友野は唖気《あっけ》にとられたらしく、匆々《そうそう》と別れて行った。
 結局、その方が、私も気らくであった。
      ×
 ……何処《どこ》をどう歩いたのか、したたかに酔痴《よいし》れた私は、もう大分夜も更けたのに、それでも、見えぬ磁力に引かれるように、郊外にあるネネの住居《すまい》を捜し求めた。
 軈《やが》て、さんざ番犬共に咆えつかれた揚句、夜眼《よめ》にも瀟洒《しょうしゃ》な文化住宅と、外燈の描くぼんやりした輪の中に「木島」の表札を発見した時は、もうその無意味な仕事の為に、心身ともに、泥のように疲れ果てていた。が、勿論《もちろん》、私はその門を叩《たた》こうとはしなかった。
 そして尚も、飢えた野良犬のように、その垣の低い家の周りを、些細《ささい》な物音をも聴きのがすまいと耳を欹《そばだ》てて、ぐるぐるぐるぐると廻《まわ》っていた。
 さっきから、たった一つの窓が、カーテン越しに、ぼーっと明るんでいるきりだった。おそらくネネはいる
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