話合った揚句《あげく》、春日は、
『ネネさん、一刻を争いますから僕が血を提供して輸血します』
『え? あたしも、あたしの血も採って……』
ネネは、この春日の、思いがけぬ義侠的な言葉に、却《かえ》ってひどく狼狽《ろうばい》したようであった。
村田氏は構わず春日とネネの耳朶《みみたぶ》から一滴ずつの血を載物硝子《さいぶつガラス》の上に採ると、簡単な操作を加えてから、
『秋本さん、あなたのは合いません、春日さんのは幸い合っていますから春日さんから輸血させて戴きます……』
『さ、すぐやって下さい』
春日は、平然としていった。
ネネは、感極《かんきわ》まったように、手を堅く握りしめて胸のところに合せた儘《まま》、眉一つ動かさぬ春日の横顔を見守っていた。
私は、春日の血液が、様々な硝子器具を通って、木島の体へ送られて行くのをじっと見乍《みなが》ら、フト、
(春日はジフィリスだったが……)
と思った、と同時に、愕然《がくぜん》とした。春日は今、ネネの眼の前で復讐をしつつあるのだ。彼からネネを奪った男の体に、忌《い》み嫌われた細菌の群が、真赤な行列をつくって移されているのだ……。
それをネネは心からの感謝をもって見ている……。
春日は、平然と、寧《むし》ろ、心地よさそうに眼をつぶっている。
そして、そのわずかばかり口元を歪めて笑った顔は、あの最初の邂逅《かいこう》の夜に、私を慄然《ぞっ》とさせたのと同じ、鬼気を含んだ微笑《ほほえみ》であった――。
私はジッと見詰めている中《うち》に、握りしめた掌《て》や脇の下からネトネトとした脂汗が滲出《にじみで》、眼も頭も眩暈《くら》みそうな心の動揺に、どうしてもその部屋を抜出さずにはいられなかった。
ともすれば、眼の前にちらつく、ネネの感謝の瞳《ひとみ》が、たまらなかったのである。
×
木島は、この時宜《じぎ》を得た処置のためか、ぐんぐん恢復して軈《やが》て、東京に帰って行った。
『君、少しひどすぎないかね。君も医者ならあんまりじゃないか――』
二人っきりになった時に、私は春日を詰《なじ》った。
『――なるほど、病気にはなるかも知れんが、しかし命は助かるじゃないか。僕は医者のつとめは十分に果したのだ』
『だが、これは僕だけの想像だが、木島は本当にあの時、輸血を必要としたのだろうか……』
春日は、それを聞くとサッと顔色をかえた。しかし、しばらくして首を振りながら、
『それは君の想像にまかせる……だが、君自身は輸血をしようとは義理にもいわなかったじゃないか……。ネネは僕に感謝していたぞ。そして、木島とはただの友人にしか過ぎない、私はただあの人の地位を利用しようとして、誘いを断り切れず、ドライヴに来たのだけれど、木島が片手で運転しながら片手で私の肩を抱きすくめたので、それを振り払った途端、カーヴを切り損《そこな》ってあんなことになってしまったのです、と涙を流して言っていたんだ。そして、この来月末にある公演の主役をすましたら屹度《きっと》僕のところへ帰って来るというのだ。――これも、君が信じようと信じまいと、どちらでもいいのだがね、兎《と》も角《かく》、僕も今度は病気を癒《なお》そうと思う……』
彼は、ゆるやかに口笛を吹くと、やがて、空中で、いきなりピアノを弾くように両手を踊らせ、あはははは、と笑った。
『信じられぬ……』
私は、反撥的にそう呟《つぶや》いた、しかしその語尾は淡く消えてしまった。
私も亦《また》、彼にとっては敵の一人であったのだ。この背負投げは、事実であるかも知れぬ……。口惜《くちおし》くも私は半信半疑の靄《もや》につつまれて来るのであった。――
六
既に、ネネと木島とが東京へ帰ってから、三月が経った。
春日のところへ、ネネが来るのを待っていた訳ではないのだが、あの気まずい別れぎわの春日の揚言《ようげん》と哄笑《こうしょう》とが、私の耳の底に凝着《こびりつ》き、何とはなくぐずぐずしている中《うち》に、もう、明るい陽射しの中を、色鮮やかな赤蜻蛉《あかとんぼ》の群が、ツイツイと庭先の大和垣《やまとがき》の上をかすめるような時候になってしまった。私は、その夏ほど、重くるしい暑さに訶《さいな》まれたことはなかった。来る年々の夏は、なるほど暑いものではあったが、しかし紺碧《こんぺき》の大穹《おおぞら》と、純白な雲の峰と、身軽な生活とから、私の好きな気候であった筈なのだが――。
春日のところへも、ネネから、一向音沙汰がないらしかった。それは、若《も》し彼をよろこばすような便りでも来れば、あの男には、とても私に話し誇らずにはいられないであろうことからも、容易に想像出来た。
その中《うち》、人の噂に、花子が又もとの所で商売に出ている、ということ
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