イシャドウ、おまけに垂れ滴《したた》るような原色の脣《くちびる》をもった、まるでペンキを塗った腸詰のようなその黴毒女《ばいどくおんな》を、春日が、例え噂にもしろ「ネネ」と呼んだ、ということについては、激しい不満を感ぜずにはいられなかった。私は、すれ違った瞬間に受けた職業的な、いやらしい|流し目《ウィンク》を、いつまでも舌打ちをし乍《なが》ら思い出し、よくもまあ、あの時、崖の上から突飛ばさずに、無事に帰って来たものだ――とすら思われた。
 が、しかし、考えてみると、あの一風変った春日にしてみれば、ネネも、ただあの醜い花子を美しく包装しただけであって、内容はまるで同じものだと思っているのかも知れぬ、イヤ、「美」の感点などというものは、人に依って違うのだ、彼はネネの声をほめたけれど、曾《か》つてネネの美しき容姿については一言もいってはいなかったではないか。春日はネネの声に恋していたのかも知れぬ、そして、聞いてはみないが、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると花子の声はネネ以上に美しいのかも知れないと思われた――でも、でも私には、余計なことかも知れないが、その花子という女は、とても我慢のならぬ代物であった。
(ネネの姉妹《きょうだい》?――)
 などという甘いロマンチズムは、かくして虚空の外にケシ飛び、儚《はかな》くも粉砕してしまったのだ。

      五

 日増しにく暖かくなって、藤の花が一つ二つ咲きはじめた日であった。
 あれから、思っただけでも虫酸《むしず》の走る花子のことを考えると、私は絶えて春日を訪れることもなかった。
 海に面した縁先に、寝椅子を持出して、目をつぶった儘《まま》、
(東京へ帰ろうか――)
 などと思われる日であった。
 思えば、なぜ「この日」を其処で迎えてしまったのであろう。その前になぜ東京へ帰って仕舞わなかったのであろう、と悔まれるのであるが、しかし、それも亦《また》、宿命という説明し尽されぬ魔力に、まだ私は囚《とら》われていたのに違いないのだ。
 それは、花子との二重写しに依って、漸《ようや》く薄れて来たネネの面影が、又々生々しく甦って来、私の胸を騒がすような事件が待設《まちもう》けていたのであった。
 午後であった、しかし、まだ午《ひる》を廻って間もない時分だ。裏木戸を蹴飛ばすような騒々しい音と一緒にあの植木屋が大事件だ、というような顔をして飛んで来た。
『いま、自動車が崖から落ちて怪我人が出たというんで大変な騒ぎで……』
『ほう、東京の人かね』
『そうで……なんでも若い者のいうことでは秋本ネネとかいう女優かなんかだそうでして……』
『ナニ――』
 私は、ガバとはね起きた。
『死んだか――』
 その返事も聞かずに、飛出した。
 太郎岬の下を廻る県道まで一気に馳けつけて見ると、成るほど一台の緑色《りょくしょく》に塗られた新型のクウペが、玩具《おもちゃ》のように二丈ばかりもある岩磯の下に転げ込み、仰向《あおむけ》にひっくりかえって、血かガソリンか、其処らの岩肌には点々と汚点が飛んでい、早くも馳けつけた青年団の連中が、その車の下から、一人の男を引《ひき》ずり出しているところであった。
 その傍《そば》の岩の上には、あの、ネネが、前よりも一層美しくなったように思われるネネが、喪心《そうしん》したように突立って、手を握りしめ、帽子を飛してしまった頭髪《かみのけ》を塩風に靡《なび》かせながら、凝乎《じっ》と、青年団の作業を見守っているのであった。
(ネネは怪我をしていない――)
 私は、「ネネ、ネネ」と大声で呼びたい心をやっと押えつけて、転がるように磯にまで行ったが、さて、真近に行って声をかけようとした時、又もグッとその声を飲んでしまった。
 其処に、春日がいるのである。
『やあ――』
 私は、わざとゆっくり声をかけた。ネネは素早い視線で私達を認めると、流石《さすが》に、はっ[#「はっ」に傍点]とした心の動揺は隠せなかったらしい。
『…………』
 唯、無言で頷《うなず》いたきりであった。そして又、ちらりと春日の横顔を偸見《ぬすみみ》た。
『怪我はしませんか』
 私が訊いた。
『ええ、あたしは……あら、どうでしょう』
 彼女はいきなり自動車から引出された男のそばに馳《かけ》寄った。そこにぐったり寝て、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に血の塊りをつけた男は木島三郎であった。私がぐずぐずしている間《ま》に、春日はその木島を抱え起し、脈を診ると、
『まだ大丈夫だ、すぐ手当をすれば受合《うけあ》う……』
『そう、それじゃすぐ病院へ……』
 ――手廻しよく呼ばれて来たタキシーで、木島をはじめ私達四人は、すぐこの町で一番大きい村田医院へかけつけた。
 折よく村田氏は在院していてしばらく春日と何か専門語で
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング