のであろう、しかし何の物音もしなかった。その馬鹿にされたような静けさが、余計私の神経を掻乱《かきみだ》すのだ……。
と、突然、まったく突然、その家の洗面所と思われる方にすさまじい水道の奔《ほとばし》る音が、あたりの静けさと、欹てた耳とに、数十倍に拡大されて、轟《とどろ》きわたった。途端に私は、巨大な「洗浄器」を錯覚して、よろよろッとその低い白く塗られた垣に靠《もた》れてしまった。その垣は霧のためにべっとりと湿っていた。そしてネネの肌のように水々しかった。私はそこへ、ガクッと頸《くび》を折ると、熱い頬を押しつけた、そして、犇《ひし》とその濡れた垣を抱しめた……。と同時に、不思議にも込上《こみあが》るような微笑を感じて来た。
四辺《あたり》、には厚い霧が、小雨のように降り灑《そそ》いでいた。
そして私は、浪に濡れた太郎岬の上で、今日も、独りしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]とネネを待っているであろう春日行彦の、痩《や》せさらばえた姿を、ひどく馬鹿馬鹿しく、憤《いきどお》ろしく思い出すと共に何かしら解放されたような、安易さを覚えて来るのであった。
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵春秋」春秋社
1937(昭和12)年8月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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