と鳴いていた。往《ゆ》きちがう人のなかには、不審そうな眼をするのもいた。
「よわったね……、あっ、チ、チキショウ」
「あら、どしたの」
「こいつ……」
 喜村は、小犬の頸をつまんでポケットから吊り出すと
「此奴《こいつ》、とうとうやっちまった……どうも変だと思ったが……」
「あらやだわ、ポケットの中で?」
「うー、ズボンまで浸《し》みて来る――」
 喜村は、あわててオーバーの釦《ボタン》をはずしてハンカチで拭いていた。
「やな子ねえ……」
 美都子の手の上で、小犬はまだ鳴きつづけていた。
 と、その時、眼の前を歩いていた、小さい風呂敷《ふろしき》包を持った、バーからバーを廻って歩く少年らしいのが、変にゆっくり歩き出したな、と思う間もなく、冷たいアスファルトの上に、ころんと横になってしまったのだ。
「あらっ」
 美都子は、もう少しで小犬を取落すところだった。
「この児《こ》も」
 喜村も、ハンカチの手をとめて、村田と顔を見合せた。
 何か、真黒な悪魔の翼が、この帝都を覆っているような怖れを覚えた。
 村田は、小走りで二三軒先きのタバコ屋に行くと
「一寸電話をかけてくれ、あそこに男の子が倒れている……」

       三

 幸い改札口もうまくパスして、新橋駅のホームに上ると、丁度小田原行の列車まで二分ぐらいの時間だった。
「こわかったわ……、早く帰りたいわ、もう東京はこりごり」
 美都子が、ほんとに怖そうに、華やかなマフラーの頸《くび》をすくめた。
 小犬は、いい具合に、もう鳴きやんでいた。
「こいつ、やっぱり催してたんだね……、いつもはこんなことないんだけど」
「まあ、いいわ、お兄様のポケットだもん」
「こいつ……」
「はっははは、でも汽車に乗るんだと思うと、近くても旅に出るような気がするね」
「そうでしょう」
 美都子が引とって
「乗ってしまえば一時間と一寸なのだからちょいちょい出て来られそうなものでも、でもやっぱり乗るまでが憶劫《おっくう》になっちまうのよ、すっかり田舎者になっちゃったわ」
「まさか……」
「ほんとなのよ」
「こいつはね、東京を離れたのが不服なんだよ、――そんなら眠り病になればいいさ、あれは村田にいわせると近代病だそうだから……」
「あらいやだ……、こんな病気が流行《はや》るんなら茅ヶ崎の方がいいわ」
 そんなことをいっているうちに、電気機関車が滑り込んで来た。
 車内に這入ると、ごろごろ寝ている人が眼について、ぎょっとしたけれど、これは眠り病のせいではない、と気づいて、ほっとした。
 美しい美都子がいたので、思ったよりも早く、茅ヶ崎に着いてしまった。
 駅をおりて、海岸の方にしばらく行った所に、十分の敷地をとって、喜村の家があった。思ったより大仕掛に犬を飼っているらしく、冷たい月の光りのなかに、幾棟かのトタン葺《ぶ》きの犬小屋の屋根が、白々と浮んで見えた。
 時折、月に遠吠えする犬の声の間に混って、久しぶりに聞く浪の音も聞えていた。
「なかなかいいとこだね」
「まあ、健康的だろ」
「犬も相当いるようじゃないか、世話が大変だろう……」
「三十匹ぐらいだよ。それにいまシェパードなんかの軍用犬の訓練も引受けてるしね、助手は三人だが、まあ好きでなきゃ出来ないさ、はっははは」
「先きまわりしていっちゃったな、――まったく好きでなくちゃ出来ない」
 丁度その時、スエーターに半ズボンの若い男が入って来た。喜村の助手である。
 喜村が聞くと、助手はけげんそうに
「はあ、あの、お正午《ひる》すぎに、どうしたのかゲンが急に吠出しまして……それにつれてほかのまで皆んな吠出してよわりましたが……」
「ゲンか――、あいつは一寸神経質だからね……、それだけかい」
「はい」
「ありがと。――村田君、こんやは遅いからあしたゆっくり案内してやるよ」
「うん、その方がいいや、僕も一寸つかれてる」
「やだね、まさか眠り病じゃあるまいね」
「冗談いうなよ……しかし、ちょいと飲んで汽車に乗ったせいか、いい具合に眠くなった」

       四

 翌朝、うつらうつらしていた村田は、喜村のために、無遠慮に叩き起されてしまった。
「な、なんだい――」
「ああよかった、眼が覚めたかい」
「え?」
「まあこれを見ろよ、東京じゃ大騒ぎだぜ、眠り病が大|猖獗《しょうけつ》だ……、君もあんまりよく寝てるからやられたんじゃないかと思って心配しちゃったよ」
「なんだよ一体」
「まあその新聞を見ろよ、デカデカと出てる、きのうの東京は今までにない物凄い発病者だとさ」
「へーえ……」
 村田が、眼をこすりながら、突出された新聞の社会面を見ると、なるほどそのトップに四五段を抜いて、
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帝都・眠りの死都と化す
[#ここで字下げ終わり]
 といったよう
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