睡魔
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彼奴《あいつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|鬱憤《うっぷん》を

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       一

「おやっ? 彼奴《あいつ》」
 村田が、ひょっと挙《あ》げた眼に、奥のボックスで相当御機嫌らしい男の横顔が、どろんと澱《よど》んだタバコの煙りの向うに映った――、と同時に
(彼奴はたしか……)
 と、思い出したのである。
「君、あの一番奥のボックスの男にね、喜村《きむら》さんじゃありませんか、って聞いて来てくれないか、――もしそうだったらここに村田がいるっていってね」
「あら、ご存じなの……」
「うん、たしか喜村に違いないと思うんだが……」
「じゃ聞いて来たげるわ」
 ハルミが、べっとりと唇紅《くちべに》のついた吸いかけの光《ひかり》を置いて、立って行った。
 と、すぐに、聞きに行ったハルミよりも先きに、相当廻っているらしい足を踏みしめながら、近づいて来たのは、矢ッ張り中学時代の級友喜村謙助に違いなかった。
「おう、村田か、しばらくだったな」
 そういって、つるんと鼻のしたを撫《な》ぜた為種《しぐさ》まで、思い出すまでもなくその頃からの喜村の癖だった。
「どうだい、その後は……」
 村田が、まあ掛けろ、というように椅子を指して
「それはそうと、珍らしいところで逢ったもんじゃないか……、たしか高等学校の二年で忽然と姿を消しちまったって噂だが、――誰かがそういってたぜ」
「まさに、その通り」
「ふーん」
「忙しいんでね――」
「何やってんだ、一体――。別に学校を退《や》めるほどの事情もなさそうだったが、働かなきゃならんほどの」
「犬――を飼ってるよ、それが仕事さ」
「へーえ」
「学校なんかよかグンと面白い――。それに今は時節柄、軍用犬の方の仕事もひどく忙しいんでね」
「おやおや、犬が好きだってことは聞いていたが……、すると犬屋か」
「左様――」
 喜村は、又鼻の下を撫ぜて、大きく頷くと、何かを思い出したように、あわてて元のボックスに戻って、脱ぎのこしてあったオーバーを抱えて来た。
「おい見ろよ」
「え――」
 喜村は、オーバーのポケットから小猫のような犬を抓《つま》み出した。ポケットテリヤだった。
「まあ可愛い、一寸《ちょっと》抱かしてね……」
 早速ハルミが抱いてしまって
「なんて名前――? ほしいわ」
「都合によっては、やらんこともない――」
「まあ、ほんと」
「ほんと、さ」
「おい、喜村。こういう手があるとは知らなかったね」
「はっははは」
「ねえ、なんて名前よ」
「名前か――、ムラタ」
「ムラタ? ――ムラタ、チンチン」
「くさらすない」
 村田は、むっとしたように眼をむいた。
「はっははは、しかし可愛いだろ、こんなのは余興だけど家にゃ素晴らしいのがいるぜ、犬の王者のセントバーナードの仔《こ》もいる、こいつは少し、混《まざ》っているかも知れんが」
「なあんだ」
 村田は、一寸|鬱憤《うっぷん》をはらして
「今、何処《どこ》にいるんだい……、矢ッ張り前の大森……」
「いや越したよ、茅ヶ崎にいる、大森あたりはじゃんじゃん工場が建っちまってね、犬の奴が神経衰弱になるんだ」
「おやおや、お犬様――だな」
「空気もいいしね……」
 喜村は、一寸弁解らしくいって
「それに、こう冬になってまで眠り病が流行《はや》ってちゃ都会はあぶないよ」
「まったく……」
「そうだ、丁度今日は土曜日だね、これから一緒に遊びに来ないか、あした一日ゆっくりいい空気を吸って、陽に当って行くといい」
「犬の蚤《のみ》がたかりやしないか」
「冗談いうな、まさか犬小屋には泊めない」
「あたりまえさ」
 村田も、冗談をいいながらも、久しぶりに気兼ねのない旧友に逢ったのだし、丁度予定のないあした一日を、海岸でゆっくり話すのもわるくはない、と思った。
「じゃ、行くかな……」
「うん、そうしろよ。――君、奥のを呼んで来てくれ」
 ハルミは、まだポケットテリヤを抱いたまま立って行った。
「おや? 連れがあったのかい――」
「妹さ」
「妹? 妹を連れてバーなんぞをうろうろしてんのかい」
「というわけでもないがね、ちょいちょい出て来るのは大変だし、昼間はデパート巡りをつきあったから、こんどはちょいと此処をつきあわしたのさ」
「あきれたね……」
 村田がいいかけた時に、ボックスの蔭になって見えなかったけれど、其処から、すらりとした美少女があらわれたので、口を噤《つぐ》んでしまった。
 なんかというと、鼻の下ばかり擦《こす》っている喜村には、過ぎた妹だった。

       二

「美都子《みつこ》
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