だよ――」
「よろしく……」
 洋装のぴったり合った、香油に濡れたような瞳《め》をしていた。
「村田君だ。知らなかったかね……、今、今なにしてんだっけね君は」
「まだいわないよ」
「ああそうか」
 村田と美都子が笑ってしまった。
「こういうところで、やってんだが」
 村田の出した名刺を見て、眉を寄せた喜村は
「……どういうことをしてんだい」
「今のとこ、さっき君のいった嗜眠《しみん》性脳炎の問題をがんがんせめられてんだがね」
「ははあ、そういう研究所かい、あんまり聞かない名前だと思ったが、ちょっと伝染病研究所みたいなもんだね」
「まあ、そういったもんだ」
「で、どうだい――」
「どうだいって、全然わからんよ、まだ病原体もわからないんだから手がつけられない」
「しかし、新聞じゃ相当騒いでるね、だんだん活字が大きくなるし」
「そうなんだ、それだけに余計やいやいわれるんだよ」
「とにかく死亡率が非常に高いからね……、予防っていうのは、矢張り過労しないようにとか、日光に直射されないようにとか、そういったぐらいかね」
「まあ、そうだろうね、心細いが――。だいたいこの病気は一九一七年にはじめて発見されたというぐらいの、つまり近代病なんだから研究も遅れているわけさ、日本に起ったのは、つい十年ぐらいじゃないのかい……、それも、二年ぐらいの周期で蔓延《まんえん》するっていうが、今年に特に物凄いからね、凉風《すずかぜ》が吹いて下火になるどころか、こんな真冬になっても物凄い発病者があるんだからな、実際の数字を発表したらびっくりするくらいあるんだ」
「発表しないのかい」
「発表しない、というわけでもあるまいが、それが○○関係の工場地帯に特に多いんだし、……秘密だけれど、このために職工が全滅に近い下請工場も一つや二つじゃない」
「矢ッ張り過労――からかな」
「いや、そればかりじゃないらしいね、或る工場では最初の発病者があってから、あわてて五時間交代にして体を休めさしたんだが、それでも仕事中に、ばたばた倒れて眠ってしまう者が続出した、っていうからね」
「ふーん、相手がわからないだけに気持が悪いなあ、まあ、あんまり東京に出て来るのは止そう……、しかしね、東京ばかりじゃないらしいぜ……」
 喜村が、そういいかけた時に、傍らでハルミが抱いていたポケットテリヤが、急にくーん、くーんと泣き出した。
「あ、小便かな。君、おろしてやれよ、おい、君ったら……」
 ハルミは、まだ抱いていた。
「ねえ、一寸――、一寸――」
 見かねた美都子が、その小犬を抱きあげてやると、俯向《うつむ》いていたハルミは、そのまま顔も上げないで、両手をだらんと垂《た》らしてしまった。
「あらッ」
「寝ちまった?」
 三人とも、ぎょっとした。
 静かに小犬と遊んでいたと思っていたハルミが、いつの間にか華やかなナイトドレスのまま、椅子のなかにぐったりとしている。顔を俯向けているのが、一寸見ると膝の上に小犬をあやしているように見えたのだ。
「おい、おいったら……」
 村田が肩をゆすったけれど、ハルミは一向に眼を覚ましそうもない。
(眠り病――。死か、直ってもバカか)
 村田も喜村も、相当廻っていた酔が、すーっと足元から冷たい床に抜けて行った。
 それでも、医者の端《はし》くれらしくハルミの脈を診《み》たりしていた村田は
「いけねえ、眼筋痲痺《がんきんまひ》を起してる――」
 そういうと、あわてて奥の洗面所の方に、手を洗いに駈けて行った。
 床に下された小犬は、別に小便をするでもなしに、くーん、くーんと泣きつづけていた。
 医者であっても、開業医ではない村田の
「おい、医者を呼んでやれ、医者を――」
 とバーテンにいっている声を聞きながら、喜村は、小犬をポケットに抱き入れると、美都子をせかしてバーを出た。
 間もなく村田と、それにつづいて二三人の客が、気味悪そうに出て来た。
「可哀そうなことをしたね、……しかもこれは伝染系統がはっきりしないんだから気味が悪いよ」
 村田は、夜ふけの冷気に、寒そうにオーバーの襟を立てながら、そう呟いた。
「やだね」
「ほんとにねえ、あたし、もう東京に来るのがこわくなったわ……茅ヶ崎にはまだ一人も出ないわよ」
 美都子もそういいながら、冷え切ったアスファルトにハイヒールを響かせていた。
 まるで申し合せたように逢った銀座裏のバーを出ると、三人は美都子を中にして新橋の方に歩いて行った。
「よしよし、よしよし……」
 喜村は、ポケットのなかの小犬を、そういいながらあやしていたが
「仕様がないな、東京に来たせいか、とても神経質になっちまったよ――」
「だからお止しなさい、っていったのに――、汽車で見つかっても知らないわよ」
「大丈夫さ――、たぶん」
 小犬は、まだくーん、くーん
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