か》られるかも知れぬ。貢さんは躊躇《ためら》つて鼻洟《はなみづ》を啜《すヽ》つた。
『切れ無いかい。貢さん。意久地《いくぢ》が無いね。約束したぢや無いか。』
『だけれど、みんな留守《るす》だから。』
『お前、解《わか》らないなあ。』
兄は歎息《といき》をついた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『あゝ、阿父さんの所為《せゐ》でも無い、阿母さんの所為《せゐ》でも無い、わしの所為《せゐ》でも無い。みんな彼奴《あいつ》のわざだ。貢《みつぐ》、意久地《いくぢ》があるなら彼奴《あいつ》を先《さき》に切《き》るがいゝ。』
[#ここで字下げ終わり]
兄が頤《おとがひ》で示した前の方の根太板《ねだいた》の上に、正月の鏡餅《おかざり》の様に白い或物が載《の》つて居る。
『何《なに》。』
と、蝋燭《ろふそく》の火を下《さ》げて身を屈《かゞ》めた途端《とたん》に、根太板《ねだいた》の上の或物は一匹《いつぴき》の白い蛇《へび》に成つて、するすると朽《く》ち重《かさな》つた畳《たヽみ》を越《こ》えて消《き》え去つた。刹那《せつな》、貢さんは、
『沼《ぬま》の主《ぬし》さんだ。』
斯《か》う感《かん》じて身をぶるぶると慄《ふる》はした。
『貢さん、貢さん。』
と、お濱さんが書院《しよゐん》の庭あたりで喚《よ》んで居る。貢さんは耳鳴《みヽなり》がして、其の懐《なつ》かしい女の御友達《おともだち》の声が聞え無かつた。兄はにつ[#「につ」に傍点]と笑つて、
『驚いたか。』
貢さんは黙《だま》つて蛇《へび》の過ぎ去つた暗《くら》い奥《おく》の方《かた》を眺めて居る。
『暗《くら》い家《うち》には彼奴《あいつ》の様な厭《いや》なものが居《ゐ》る。此の家《うち》の者は皆|彼奴《あいつ》の餌食《ゑじき》なんだ。』
よくは解《わか》らぬけれど、兄の言つて居る事が一一道理《いちいちもつとも》な様に胸に応《こた》へる。斯んな家に皆が一日も居ては成らぬ様な気が為た。
『晃兄さん、早くお逃《に》げなさい。縄を切《き》りますから。』
『難有《ありがた》う。お前もね、わしの年齢《とし》に成つたら、兄さんが明《あか》るい面白い処へ伴《つ》れてつて遣《や》らう。』
『本当《ほんたう》に面白いの。』
『面白いとも。』
『単独《ひとり》では行かれ無いの。』
『行かれる。兄さんは単独《ひとり》で行くんだ。』
『屹度《きつと》伴《つ》れてつて下さい。』
『わしの年齢《とし》に成つたら。其れ迄は辛抱《しんぼう》して吉田の学校を卒業するんだよ。』
『女《をんな》でも行かれるの。』
『行かれるとも。其処《そこ》は女の方が多《おほ》いんだ。』
『阿母さんも伴《つ》れてつて上《あ》げなさい。』
『諄《くど》いね。早く縄を切《き》つてお呉《く》れ。』
貢さんは勇々《いそ/\》として躊躇《ためら》ふ所なく麻縄《あさなは》を切り放つた。お濱さんは玄関の方へ廻《まは》つて来た。
『貢《みつぐ》さん、貢さん。』
『お濱さんが先刻《さつき》からお前を探《さが》して居る。早く行つてお出で。』
兄は柱《はしら》に倚《よ》つて立上り、縄の食ひ込んだ、血の滲《にじ》んだ手首《てくび》を擦《さす》り乍ら言つた。貢さんは、
『今行きます、お濱さん。』と甲高《かんだか》な声で言つて、『晃《あきら》兄《にい》さん、お濱さんも僕と一緒に伴れてつて上げて頂戴《ちやうだい》。』
『馬鹿。よその人に其《そ》んな事を言ふんぢや無いよ。』
兄の睨《にら》むのも見返《みかへ》らずに、貢さんは蝋燭と庖丁とを持つて内陣《ないぢん》へ跳《と》ぶ様に上《あが》つて行つた。
お濱さんは裏口《うらぐち》から廻つて、貢さんの居間《ゐま》の縁《えん》に腰を掛けて居た。眉の上《うへ》で前髪を一文字に揃《そろ》へて切下げた、雀鬢《すゞめびん》の桃割《もヽわれ》に結つて、糸房《いとぶさ》の附いた大きい簪《かんざし》を挿して居る。腫《は》れぼつたい一重瞼《ひとへまぶた》の、丸顔の愛くるしい娘だ。紫の租《あら》い縞《しま》の縒上布《よりじやうふ》の袖の長い単衣《ひとへ》を着て、緋の紋縮緬《もんちりめん》の絎帯《くけおび》を吉弥《きちや》に結んだのを、内陣《ないぢん》から下《お》りて来た貢さんは美《うつ》くしいと思つた。洗晒《あらひざら》しの伊予絣《いよがすり》の単衣《ひとへ》を着て、白い木綿の兵子帯を締めた貢さんは肩を並べて腰を掛けた。お濱さんは三つ年上《としうへ》で十三に成るが、小学校は病気の為に遅《おく》れて同じ級《きふ》だ。お濱さんの父は、もと越前の藩士で今は京都府の勧業課長を勤めて居る。
『お濱さん、僕、朝から行かうと思つてたけれど。』
『あたし待つててよ。しどいわ。』
『悪《わる》かつた。僕、留守番を云ひ附かつたの。』
『あ
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