たし、そんな事は知らないでせう。待つて待つて、泣いて、阿母さんに叱《しか》られたのよ。』
『泣くなんて、可笑しいなあ。』
『でも、貢さんが嘘《うそ》をつくんですもの。』
『嘘《うそ》をつくものか。僕は行きたかつたけれど。』
『あたし、先刻《さつき》から喚《よ》んでたのに、あなた何処《どこ》に入らしつたの。』
『さう、先刻《さつき》から喚んでたつて。僕、聞えなかつた。』
『お昼寝《ひるね》でせう。』
『昼寝なんか為《し》ない。』
『お雲隠《はゞかり》。』
『晃《あきら》兄《にい》さんと話してたんだ。』
『晃《あきら》兄《にい》さんが入らつしやるの。』
『ふん。』
 お濱さんは、一寸手で桃割を撫でて、頬を赤くしながら、
『貢さんは矢張《やつぱり》嘘《うそ》を御吐《おつ》き為さるのね。晃兄さんが入らつしやるのに、留守番だなんて。』
 と云つた。貢さんは困《こま》つたらしく黙つて俯向《うつむ》いた。此時|前《まへ》の桑畑の中に、白い絣《かすり》を着て走《はし》つて行く人影《ひとかげ》がちらと見えた。
『あら、あたし、ちよいと用があつてよ。』
とお濱さんは云つて、不意に駆け出した。貢さんも急いで草履を穿《は》いて、お濱さんの跡を追つて行つた。二人が桑畑を抜けて街道へ出た時には、二町も先《さき》の路を、晃《あきら》兄《にい》さんが洋杖《すてつき》を手に夏帽を被つて、悠々《ゆう/\》と京の方へ出て行《ゆ》くのであつた。
[#地から7字上げ]――(完)――



底本:「新声」新声社
   1909(明治42)年3月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※「鹿《しゝ》ケ谷《たに》」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月24日作成
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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