たが、思切《おもひき》つて引くと、荒い音も為《せ》ずにすつ[#「すつ」に傍点]と軽く開《あ》いた。
『あツ。』
 貢さんが覗《のぞ》いたのは薄暗《うすぐら》い陰鬱《いんうつ》な世界で、冷《ひや》りとつめたい手で撫でる様に頬《ほ》に当《あた》る空気が酸《す》えて黴臭《かびくさ》い。一|間程前《けんほどまへ》に竹と萱草《くわんざう》の葉とが疎《まば》らに生《は》えて、其奥《そのおく》は能く見え無かつた。
『何処《どこ》に居るの。晃《あきら》兄《にい》さん。』
『仏《ほとけ》さんの前の蝋燭《ろふそく》に火を点《つ》けてお出で。』
 貢さんは兄の命令通《いひつけどほ》り仏前《ぶつぜん》の蝋燭を取つて、台所へ行つて附木《つけぎ》で火を点《つ》けて来た。
『晃《あきら》兄《にい》さん、中《なか》は汚《きた》なか無くつて。』
『其処の直ぐ下に阿母さんの穿《は》きなさる草履があるだらう。』
 蝋燭をかざして根太板《ねだいた》の落ちた土間《どま》を見下すと、竹の皮の草履が一足《いつそく》あるので、其れを穿《は》いて、竹の葉を避《よ》けて前に進むと、蜘蛛の巣が顔に引掛る。根太《ねだ》も畳《たヽみ》も大方《おほかた》朽《く》ち落ちて、其上《そのうへ》に鼠《ねずみ》の毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り散《ちら》した様《やう》な埃《ほこり》と、麹《かうじ》の様な黴《かび》とが積つて居る。落ち残つた根太《ねだ》の横木《よこぎ》を一つ跨《また》いだ時、無気味《ぶきみ》な菌《きのこ》の様《やう》なものを踏んだ。
『此処《こヽ》だよ。』
 中央《ちうあう》の欅《けやき》の柱《はしら》の下から、髪の毛の濃《こ》いゝ、くつきりと色の白い、面長《おもなが》な兄の、大きな瞳《ひとみ》に金《きん》の輪《わ》が二つ入《はい》つた眼が光つた。晃《あきら》兄《にい》さんは裸体《はだか》で縮緬《ちりめん》の腰巻《こしまき》一つの儘|後手《うしろで》に縛《しば》られて坐つて居る。貢さんは一目見て駭《おどろ》いたが、従来《これまで》庭の柿の樹や納屋《なや》の中に兄の縛《しば》られて切諌《せつかん》を受けるのを度々見て居るので、こんな処へ伴《つ》れて入《はい》つて縛つて置いたのは阿父さんの所作《しわざ》だと思つた。阿母《おつか》さんが裸体《はだか》の上から掛けて遣《や》つたらしい赤い毛布はずれ落ちて居た。
『貢《みつぐ》、お前、兄《にい》さんの言ふ事を諾《き》いて呉れ無いか。』
『晃《あきら》兄《にい》さん、御飯《ごはん》でせう。御飯《ごはん》なら持つて来《こ》よう。阿母さんが留守だから御菜《おさい》は何も無いことよ。』
『今《いま》握飯《にぎりめし》を食《く》つたばかりだ。御飯《ごはん》ぢや無い。』
『ぢや、お茶。』
『お茶も飲まして貰《もら》つた。』
『衣服《きもの》を持つて来て上《あ》げようか。』
『衣服《きもの》は自分で着《き》るがね。』
『何《なに》なの。晃《あきら》兄《にい》さん。』
『お前《まへ》本当《ほんたう》に諾《き》いて呉れるか。』
 兄が此様《このやう》に念《ねん》を押《お》し辞《ことば》を鄭寧にして物《もの》を頼んだ事は無いので、貢さんは気の毒に思つた。
『ふん、何んでも諾《き》きます。』
『難有《ありがた》いな。ではね、包丁《はうちやう》を取つて来てね、此の縄《なは》を切《き》つて御呉《おく》れ。』
『宜《い》いとも。』
 元気よく受合つて台所から庖丁を取つて来た。左の手に蝋燭《ろふそく》を持つて兄の背後《うしろ》に廻《まは》つたが、三筋《みすぢ》の麻縄《あさなは》で後手に縛《しば》つて柱《はしら》に括《くヽ》り附けた手首《てくび》は血が滲《にじ》んで居る。と、阿父《おとう》さんが晃兄さんを切諌《せつかん》なさる時の恐《こは》い顔が目に浮《うか》んだので、此の縄を切《き》つては成らぬと気が附いた。
『之《これ》を切《き》つて、僕、阿父《おとう》さんに問はれたら何《なん》と云ふの。』
『お前にも阿母《おつか》さんにも迷惑《めいわく》は掛け無い。わしの友人《ともだち》が来て知らぬ間《ま》に連《つ》れ出したとお言ひ。』
『晃《あきら》兄《にい》さんは又《また》逃《に》げて行く積《つも》りなの。』
『此処はわしの家《うち》ぢや無い、仇《かたき》の家《うち》ぢや。兄さんの家は斯《こ》[#「こ」は底本では「こん」と誤植]んな暗い処ぢや無くて明《あか》るい処に有るんだ。』
『明《あか》るい処つて、何処《どこ》。大坂か、東京。』
『そんな遠方《ゑんぱう》ぢや無い。何《なん》でもいゝ、早く縄を切《き》つて自由に為《し》てお呉れ。痛くて堪《たま》ら無いから。』
 阿母さんも居ない留守《るす》に兄を逃《にが》して遣つては、何《ど》んなに阿父さんから叱《し
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