らだ。途端にお濱さんを思ひ出した。約束の時間に自分が行か無いので、待《ま》ち兼ねてお濱さんが迎へに来たのだと考へた。
貢さんは兎《うさぎ》の跳《と》ぶ様に駆け出して桑畑に入つて行つた。畑《はたけ》の中《なか》にお濱さんは居ない。沼《ぬま》の畔《ほとり》に出た。旱の為に水の減《へ》つた摺鉢形《すりばちなり》の四|方《はう》の崖《がけ》の土は石灰色《いしばいいろ》をして、静かに湛《たヽ》へた水の色はどんよりと重く緑青の様に毒々しい。お濱さんは居なかつたがおなじ様に鼠色《ねずみいろ》の無地《むぢ》の単衣《ひとへ》を着た盲唖院の唖者《をし》の男の子が二人、沼《ぬま》の岸の熊笹《くまさヽ》が茂つた中に蹲《しや》がんで、手真似で何か話し乍ら頷《うなづ》き合つて居た。其れが貢さんには、蛇の穴《あな》を発見《めつ》けたので掘《ほ》らうぢや無いかと相談して居る様《やう》に思はれた。
『悪《わ》るい事なんか為ては行《い》かんよ。』
と、五六|間《けん》手前《てまへ》から叱《しか》り付けた。唖者《をし》の子等《こら》は人の気勢《けはひ》に駭《おどろ》いて、手に手に紅《あか》い死人花《しびとばな》を持つた儘《まヽ》畑《はたけ》を横切《よこぎ》つて、半町も無い鹿《しヽ》ヶ谷《たに》の盲唖院へ駆けて帰つた
貢さんは見送つて厭《いや》な気がした。
(三)
元気の無さ相《さう》な顔色《かほいろ》をして草履を引きずり乍ら帰つて来た貢さんは、裏口《うらぐち》を入《はい》つて、虫《むし》の蝕《く》つた、踏むとみしみし[#「みしみし」に傍点]と云ふ板の間《ま》で、雑巾《ざふきん》を絞《しぼ》[#「しぼ」は底本では「じぼ」と誤植]つて土埃《つちぼこり》の着いた足を拭いた。
『阿母さん、阿母さん。』
二三度|喚《よ》んで見たが、阿母さんは桃枝《もヽえ》を負《おぶ》つて大原へ出掛けて居無かつた。貢さんは火鉢の火種《ひだね》を昆炉《しちりん》に移し消炭《けしずみ》を熾《おこ》して番茶《ばんちや》の土瓶《どびん》を沸《わか》し、鮭《しやけ》を焼いて冷飯《ひやめし》を食つた。膳を戸棚に締つて自分の居間に来《く》ると、又お濱さんに逢ひ度く成つた。一走《ひとはし》り行つて来ようかと考へたが、頭《あたま》が重《おも》く痛む様《やう》なので、次の阿母さんの部屋の八畳の室《ま》へ来て障子を明放《あけはな》して、箪笥の前で横に成つた。暑い日だ、そよと吹く風も無い。軒に縄を渡して阿母さんが干《ほ》した瓜《うり》の雷干《かみなりぼし》を見て居ると暈眩《めまひ》がする。じつと目を閉ぢようと為たが、目を閉ぢると、此の広い荒れ果てた寺《てら》に唯つた独り自分の居《ゐ》ると云ふ事が、野の中《なか》で捨児《すてご》にでも成つた様に、犇々と身に迫《せま》つて寂《さび》しい。其れを紛《まぎ》らす為《ため》に目を開いて何か唱歌でも歌はうと試みたが、喉《のど》が硬張《こはゞ》つて声が出無かつた。と、突然低い静かな声で、
『貢《みつぐ》、貢。』
『あ、晃《あきら》兄《にい》さん。お帰り。』
起上《おきあが》つて玄関《げんくわん》の方《はう》へ走《はし》つて出ようとすると、
『此処《こヽ》だよ。貢《みつぐ》。』
『晃《あきら》兄《にい》さん、何処《どこ》なの。』
貢さんは玄関と中の間の敷居《しきゐ》の上《うへ》に立つて考へた。
『此処《こヽ》だよ。』
低い静かな声は本堂から聞える。其処《そこ》は雨が甚《ひど》く洩るので、四方の戸を阿父《おとう》さんが釘附《くぎづけ》にして自分の生れ無い前から開けぬ事に成つて居る。御参詣《おまゐり》の人も無い寺なので、内の者は内陣《ないぢん》で本尊様を拝む。本堂の五十畳敷だと云ふ広間《ひろま》は全く不用な塲処だ。内の者は皆此の広間の有る事を忘れて居《ゐ》る。殊に貢さんは生れて一度も覗《のぞ》いて見ないのだから、遠い遠い不思議な世界から声を掛けられた気が為《す》る
『晃《あきら》兄《にい》さん、何《ど》うして其《そ》んな処へ入《はい》つたの。何処から入《はい》るんです。』
少時《しばらく》返事が無い。
『晃《あきら》兄《にい》さん。』
と、貢さんは大きな声を為《し》て喚んだ。低い静かな声は、
『内陣へ廻《まは》りな。左から三枚目の戸だ。』
貢さんは座敷を通《とほ》つて一段高い内陣へどんどんと足音をさせて上《あが》つた。
『左から三枚目。』
と、又声が為る。昔から釘附《くぎつけ》に為てあると計り思つて居た内陣と本堂との区劃《しきり》の戸を開けると云ふ事は、少《すくな》からず小供の好奇《かうき》の心を躍らせたが、愈々《いよ/\》左から三枚目の戸に手を掛ける瞬間《しゆんかん》、何《なん》だか見無いでも可《い》いものを見る様な気が為て、怖《こは》く成つ
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