、よく阿母さんの言ふ事をお聞き。なんぼ貧乏な生活《くらし》をしても心は正直《しやうぢき》に持つんですよ。』
『はい。』
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『晃《あきら》兄《にい》さんの様に成つては仕様が無いわね、阿母さんの衣服《きもの》や頭《あたま》の物を何遍《なんべん》も持出して売飛ばしては、唯もう立派な身装《みなり》をする。こんな阿父さんも御着に成らん様な衣類《きるゐ》や、靴や時計を買つてさ。学問でもする事か、フルベツキさんに英吉利西の語《ことば》を習つても三月足らずで止《や》めて了《しま》ふし、何かなし若《わか》い娘さん達の中《なか》で野呂々々と遊んで居たい、肩上を取つたばかしの十八の子の所作《しよさ》ぢや無い。祟《たヽ》つてる御方《おかた》があつて為《な》さるのかも知らんけれど、あれでは今に他人様《ひとさま》の物に手を掛けて牢屋《ろうや》へ行く様な、よい親の耻晒《はぢさら》しに成るかも知れん。今度は阿父さんの財嚢《かみいれ》から沢山《たくさん》なお金《かね》、盲唖院の先生方《せんせいがた》の月給に差上げるお銭を持出して二|月《つき》も帰つて来ないんだもの。阿父さんは見附次第《みつけしだい》警察へ出すと被仰るけれど、其れでは明るみの耻に成る。阿母さんは大原《おほはら》の律師様《りつしさま》にお頼みして兄《にい》さん達と同じ様《やう》に何処《どこ》かの御寺《おてら》へ遣つて、頭《あたま》を剃らせて結構な御経《おきやう》を習はせ度いと思ふの。ね、貢さん、阿母さんや此の脊中《せなか》の桃枝《もヽえ》が頼《たよ》りにするのはお前|一人《ひとり》だよ。阿父《おとう》さんはあんな方《かた》だから家《うち》の事なんか構《かま》つて下さら無い。此の下間《しもつま》の家《うち》を興すも潰《つぶ》すもお前の量見|一《ひと》つに在る。其れに阿母さんも此の身体《からだ》の具合では長く生きられ相《さう》にも無いからね、しつかり為て頂戴よ、貢さん。』
[#ここで字下げ終わり]
『はい、解《わか》つて居《ゐ》ます。阿母さん。』
貢さんの頬にははらはら[#「はらはら」に傍点]と熱い涙が流れた。阿母さんは萌黄《もえぎ》の前掛《まへかけ》で涙を拭《ふ》き乍ら庫裡の中へ入《はい》つた。貢さんは何時《いつ》も聞く阿母さんの話だけれど、今日は冷《つめ》たい沼の水の底《そこ》の底で聞かされた様な気がして、小供心に頼り無い沈んだ悲哀《かなしみ》が充満《いつぱい》に成つた。で、蚯蚓《みヽず》が土を出て炎天の砂の上をのさばる様に、かんかんと日の照る中《なか》を歩《ある》いてづぶ濡れに冷え切つた身体《からだ》なり心なりを燬《や》け附《つ》かせ度く成つたので、書院の庭の、此頃の旱《ひでり》に亀甲形《きつかふがた》に亀裂《ひヾ》の入《い》つた焼土《やけつち》を踏んで、空池《からいけ》の、日が目《め》を潰《つぶ》す計りに反射《はんしや》する、白い大きな白河石《しらかはいし》の橋の上に腰を下《おろ》した。
『阿母さんが死になさるのぢや無いか知ら。』
ふつと斯《こん》な事が胸に浮んだ。今日に限つて特別に阿母さんの身体《からだ》が鉄色の銚子縮《てうしちヾみ》の単衣《ひとへ》の下に、ほつそりと、白い骨《ほね》計りに見えた様な気がする。『なあに。』と直ぐに打消したが、ぞつと寒く成つて身体《からだ》が慄《ふる》へた。次いで色々の感想が湧いて来る。
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『家《うち》では阿母さんが一番気の毒だ。………併し阿父さんも、あんな羊羹色《ようかんいろ》のフロツクしか無いんだもの、知事さんの前なんかで体裁《きまり》が悪るからう。…………阿父さんは、晃兄さんには仕方が無いけれど、阿母さんに何故あゝ慳貪《けんどん》に物を被仰るんだらう。…………晃兄さんも習字があの様に善く出来て、漠文の御本も善く読める癖に、何故《なぜ》真面目《まじめ》に成つて夷人《ゐじん》さんの語《ことば》が習へないのかなあ。…………家《うち》の物《もの》を泥坊するのは良《よ》く無いが、阿父さんが吝々《けち/″\》してお銭《あし》をお遣りなさらんから、兄さんも意地に成るんだ。…………兄さんも阿母さんから、初中《しよちう》内密《ないしよ》で小遣《こづかひ》を戴き乍ら…………阿母さんが被仰る通り女の様に衣服《きもの》なんか買ふのは馬鹿々々しい。』
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果《はて》しなく斯《こ》んな事を思ひ続けて居ると、何処《どこ》かで自分を喚ぶ声がした。庫裡《くり》の方《はう》へ向いて、
『阿母さんなの。』
と大きな声で尋ねたが、返事が無い。立上らうとすると汗をびつしより[#「びつしより」に傍点]掻いて居た。裏口《うらぐち》へ行かうとする時、又|何《なに》か声が聞えた。桑畑の中か
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