「にも居られなくなる時が来ます、屹度。
――あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。
――帰りではなくて行く途中よ。………あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。
――それは悪《わる》くない。
――ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから三鞭酒《シヤンパアニユ》の名高い産地ですわ。王政時代の古いホテルで一晩泊つて明日の夕方芝居の時間までに帰つて来ませう。
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女の言葉には拒むことの出来ない力があつた。おれは躊躇せずにこの突発の勧誘に応じてしまつた。
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――行かう、それは面白からう……… 汽車は何時に出るの。
――午後四時。
[#ここで字下げ終わり]
時計を見ると四十分の猶予しかなかつた。おれは急いで顔を剃つた。女も手提の金色《きんいろ》の嚢《サツク》から白粉入を出しておれの使つて居る掛鏡《かけかがみ》を覗き込みながら化粧をしなほした。おれはトランクの底から百フランの紙幣を三枚抜き出してそつと洋袴《パンタロン》の隠しへ捻ぢ込んだ。
発車前十分におれ達の自動車は北の停車場へ着いた。女は荷物《パツケ》をおれに持たせて置いて二人の二等の往復切符を買つた。荷物《パツケ》は量《かさ》の割に軽いものである。おれは女がなぜこんな荷物《パツケ》を持つて出掛けるのか解らなかつた。おれは停車場の中の本屋でランスの智識を得るためにベデカアの北部仏蘭西の部を買ひ求めた。
汽車の中の廊を通る時、婦人専用室の中に腰を掛けた品のいい一人の老婦人の目と女の目とが合つた。二人は挨拶した。そして女が後ろを一寸振り向いて閃かした 〔UN COUP D'OE&IL〕[#「〔UN COUP D'OE&IL〕」は底本では「〔UN COUP D,OE&IL〕」] の信号がおれを一人で澄したままさつさと他の男女雑居の二等室へ入らせた。女はおれにつづいて来なかつた、そのまま老婦人の室へ席を取つてしまはねばならなかつたのであらう。おれは十五六年前にも或女を伴れた旅行でこんな経験をしたことを朧気に思ひ出したが、それが日本の何処の鉄道線であつたかが思ひ出せなかつた。おれは併し隣の空《あ》いた席へ荷物《パツケ》を置いて後《あと》から入つて来る乗客に「これは僕
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