室の中で、部長はソファに埋って、昨夜の不足な睡りを補っていた。
「あの、前川ですが……」
「うう、……ああ、あんたかね。さ、其処《そこ》へ掛けなさい。」
 流れかかった涎《よだれ》を慌てて吸い上げると、部長は赤く禿あがった額をてれくさそうに永いこと拭いた。
「何か御用事でも……」
「今、今話すがね。まァ、悠《ゆっ》くりと寛いだ方がいいじゃないですか。さ、もっとこっちへいらっしゃい。温かいところへ……」
 ――成程、慣れたもンだな。この手で事務員達をものにしてたンだな。フフン――
 槇子は、白髪染で染たらしい黒すぎる部長の髪を、睫毛《まつげ》の先きで軽蔑した。
「あの、只今利札の方が大変忙しいんでございますけど……」
「何月渡しの利札だね。」
「勿論、十二月でございます。」
「大東製糖も確か十二月だったな。七十八回の五分利国庫……」
「大東でしたら年四期、十月に切ってしまいました。多分東洋製糖のお間違いでございましょう。」
「そ、そうだったな。私は近頃ひどい健忘症になってね。どうも仕事が煩雑過ぎて多忙をきわめる。何とかせんといかんわ。……ところで前川さん、私の呼んだ用件というのはその、何だな、その……」
 閊《つか》えた言葉を茶と共に胃の腑へ戻してから、部長は柔かいハンカチで万遍なく口の囲りを撫でた。
 しつこい香水に咽《むせ》て、槇子は立て続けに何度も咳入った。
「何だな、あんたは非常な勉強家だという評判じゃないですか。」
「左様でございますか。」
「左様ですか、って。ハハハハ、一体どの方面を主に勉強していられるかね?」
 金縁眼鏡の中で、相手の眼が誇張してとぼけている。
「お料理に興味をもってますわ。一週間に一度ずつ、講習会に参りますの。」
「ほほう、私にも一度御馳走してくれんかな。今からお嫁入りの仕度とは殊勝な、どうだね、前川さん、この私の月下氷人じゃァ、ハハハハ、気に入らんというのかな。」
 眼鏡を上下に揺すって、部長は笑って、笑って、馬のように息を切ると、やっと口を閉じた。「ところで、その講習会じゃ、赤い料理の造り方も教えるだろうがな。どんな味ですかね、そいつは?」
「トマトのお料理のこと仰有《おっしゃ》るんでしょう。とても酢っぱくて、貴方のお口に合いそうもありませんわ。」
「これはこれは……いや、その方法なりと教えて下されば、帰ってから家内へなりと伝えよう
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