罠を跳び越える女
矢田津世子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紙埃《かみぼこり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)炭酸|瓦斯《ガス》の匍匐

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+盧」、461−上−6]《わらいごえ》

*:伏せ字
(例)ほんとの***になっちゃうって
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 三階利札室は銃声のない戦場だ。
 凄じい誰かの咳、猛烈な紙埃《かみぼこり》、白粉の鬱陶しい香《にお》いと捌口のない炭酸|瓦斯《ガス》の匍匐《ほふく》、
 拇指《おやゆび》と人差指の多忙な債券調査、海綿の音高い悲鳴、野蛮な響きを撒きちらす鋏、撥《は》ね返るスタンプ、※[#「口+盧」、461−上−6]《わらいごえ》、ナンバアリングの律動的《リズミカル》な活動、騒々しい帳薄の開閉、大仰な溜息、金額を叫ぶソプラノ、算盤《そろばん》の激しい火花、ペン先きの競争的な流れ、それを追いかける吸い取り紙……

「ねえ、貸付けへすごいのが這入《はい》ったわ。見て? ナ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]アロ型のシャンよ……」
「そう。昼休みに見てこう。」
「あら、私もね。」
「桂子さんが慌ててるよ。チェッだ。」
「ハッハッハッハッ……」
 笑い声が帯紙を吹きとばす。

「……こんな恰好の青い瓶に入ってるの。」
 利札を切りかけで、真白になったテーブルの紙埃を掻き分けて、人差指が熱心に動いている。
「フン、ほんとに利くかしら?」
「それァね。一寸値が張るけど。でもね、余り使い過ぎるとほんとの***になっちゃうって……」
「加減しなきゃ駄目ね。」

「で、あんたその男にまいっちゃってるんでしょ?」
「とてもよ。そいでね、私、昨日逢った時思い切って云ってやったの。――私、あんたがとても好きなんです、ってね。その後が勇敢よ。接吻しちゃったんだもの。」
「あんたがその人に?」
「もち、愕《おどろ》いた?」
「別に……」

「じゃこの次は何時《いつ》にしましょうか、あんたの都合は?」
「そうね、次の日曜にでもみんなに集まって頂いたら。余り長びくと折角の気が脱けてしまうわ、それに、もう基礎工事もすんだからこれから人をまとめるのが目的でしょう、その意味でも、なる可
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