、この哀しみが胸を痛めつけてくる。
或る陽暮れ時、紀久子が二階の部屋へ行くと、兄は電灯のついていない薄暗い窓べりの籐椅子にのけぞっていた。「兄さん!」と声をかけると、「うん」と懶げに返事をしたなり振りむきもしない。窓に近づいて顔をのぞきこむとその眼がじっと遠くの何かを視詰めているようである。視線を辿っていくと、庭を越えた向うの離れの窓へ落ちていく。その窓からは湯上りらしいおきえさんが肌をぬいで鏡台に向っている様がのぞかれる。兄の眼はどうやらそれへ執着しているらしい。明るい電灯の下におきえさんの豊かな白い肌が冴えざえと浮き立ってみえる。化粧がすんだのか、高く手をあげて髪へ櫛をいれている。手が動くにつれて盛りあがった乳房が生まなまとした感覚をそそりたてるようである。
「須藤さん奇麗だなあ」
兄が呟くように云った。思わずも言葉が口を洩れたという風である。
「まあ、兄さんは、いつもここからみとれていたの」とつい厭味をきかせて云うと、
「ばかな奴だなあ」
と兄はひょいと躯を起して電灯をつけた。てれてか眉間へ気難しげに縦皺をきざんだ兄の顔はふと紀久子にいつかの父を思い出させた。
夜分厠へ起
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