ってはいないのだろう、いつもの顔で甲斐がいしく荷物の世話をやいている。
その夜、紀久子は父の居間へ呼ばれた。
「紀久子も嫁入り前だし、これからはいろいろ支度の方のこともあって忙しくなるだろうから、家の事は須藤にまかせてみたらどうかね。いや、須藤もいつまでああじゃ困るし家庭のことを追々と覚えてもらわんといかんからな」
予期しない言葉であった。紀久子がまごついて返事をせずにいると、「この間から思いついていたんだが……」と、父は思い出したようにつけ足した。それが何か今の言葉を弁解しているようにきこえる。
「お父様の仰言る通りでよろしいですわ」
しばらくして紀久子は云ったが、眼の前の父の姿がよそよそしい遠いものに感じられるのはどういう訳かしら、と呆んやり考えていた。
父やおきえさんや飯尾さんの姿がひとかたまりになってずっと離れたところに感じられるようになると、紀久子の心はしきりに兄を求めていった。兄だけがこの世で身近い唯一人だと思う。そう思いこもうと努め、兄へ追いすがろうとしている自分の姿に気付いた時は哀しい。もしかしたら父よりももっともっと自分には遠い兄であるかもしれぬのだ。時として
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