時に、紀久子の裡にいつも浮んでくるひとつの想いがある。――この仕合せそうな父をずっとみているとそこから亡くなった母の寂しそうな姿が迫ってきて父への憎悪が今この胸へこみあげてくるにちがいないと思う。今々と待っていてもやっと思い浮んだ母の姿には悲痛の感動がともなわず、一向父への憎しみが湧いてこないばかりか却ってそのやわらんだ明るい父の顔から不思議にほっとした長閑な気分になるのだった。気が付いてみると母が亡くなってからずっと、このほっとした気分がつづいている。何か神経のゆるんだような感じであった。
母がこれまで使っていた離れの二間がおきえさんの居間にあてられた。
「須藤はこれまで芸一方でやってきたのだから家庭のことは不得手だろう」
朝風呂をすませて縁へ出てきた父が、離れの手すりにもたれて池の鯉へ麩を投げているおきえさんをみやりながらこう独り言のように云うているのを傍で紀久子は聞いていたことがあった。父はおきえさんをいつも須藤と呼んでいた。その、紀久子へきかせるための独り言は何か非家庭的なおきえさんを弁護しているとも思われるし、また、そうしたおきえさんの立場を当然認めてやっている、いや、お
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