なった。煙管で頬のあたりを掻きながら茶の間を出て行く紀久子へ、
「旦那様の御旅行のお支度でしたらお手伝いいたしましょうか」と尋ねた。それで、明朝の父の新潟行きを紀久子は思い出したので離れへ行きかけた足をちょっと停めた。そして、
「いつもの通りですから独りで結構よ」
と廊下から声をかけて父の居間へ入り袋戸棚からスーツケースを下した。新潟にある鉄工場を見廻りに父はひと月に二三度はこうして出かけるのだった。旅といっても仕度をする程のこともなく、汽車の中で使うタオルにハンカチを余分に二三枚用意しておくだけでよかった。それが母のいた頃からの慣しであった。
「長旅をなさるのに着換えを持っていらっしゃらないと御不自由ではないかしら」
いつものように父の旅支度をしていた母へ紀久子は尋ねてみたことがあった。
「御不自由などころか新潟のお宿ではお父様の肌着から足袋まですっかり用意が出来ているのですからね」
こう云って母はスーツケースから眼をあげて何気ない風に庭をみやったが、気のせいか、そのそばめた眼つきには皮肉めいたものがみえた。
「まるでお家のようね。それじゃお父様御ゆっくりなされるはずですわ」
前へ
次へ
全40ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング