腰ばかりではなく、以前はひっつめて後ろに小さく束ねていた髪もこの節では母のように前髪をとり髱《たぼ》を出してお品よく結っているのだった。それに、母の形見だという小粒の黒ダイヤのはまった指輪の手をたしなみ好く膝の上に重ねて少し俯向きかげんに人の話をきいている様子は母にそっくりであった。
「飯尾さん、ばかにめかしているじゃないか、親爺に気があるのとちがうか」
 いつか、湯上りの飯尾さんがクリームをつけたにしては少し白すぎる顔で遅い夕飯の父へ給仕をしているところをみかけた兄が、お吸物をはこんできた紀久子を裏廊下のところでつかまえて面白そうにこう笑ったことがあった。それまでは別に気にもとめず過してきた紀久子は兄に云われた瞬間、飯尾さんに対して無性に胸わるさを感じた。「まさか」と兄へは打消しておいたが、どうも後味がよくない。それからは妙に飯尾さんへこだわるようになってしまった。そして、今も、母の癖の出た飯尾さんの眼つきをみて紀久子は厭な気がした。話すのが億劫になってくる。それに話し出せばまたおきえさんの非難をきかされるのがおち[#「おち」に傍点]である。母が亡くなってからは余計に、おきえさんの話が出ると飯尾さんはむき[#「むき」に傍点]になるのだった。
 そんな時の飯尾さんの表情はヒステリックにひきしまってきて、妙にひっからんだ声音でくどくどときかせるところはこのひとの執念の程を思わせた。それは、亡くなった母への義理だてから父の情人をこきおろす、というような単純な心から出たものではなく、何かそこに個人的な根深いものがひそんでいるように感じられた。ふと、薄化粧した飯尾さんがしな[#「しな」に傍点]をつくって食事の父へ給仕をしている姿を頭に描いて、紀久子は自分事のように身内を熱くした。ただ、眼を覆いたいうとましさだけがくる。そのくせ眼前の飯尾さんをみるとつくづくこの年寄りが、と何かしら可笑しくなってきて、この顔がなまめいたらどんなかと、ああもこうも想像してはしらずしらずに好奇心をそそられていく。そんなことで気もちがそれて紀久子は話すのが一そう億劫になった。そして用事を思いたった気忙しい様子で不意に座を立った。
「あの、お姉さんね、この間の染物のこと飯尾さんにお頼みしてくれるようにって云ってらしてよ」
「ああそのことならさっき通りでお伺いしました」
 飯尾さんは少々気ぬけのした顔になった。煙管で頬のあたりを掻きながら茶の間を出て行く紀久子へ、
「旦那様の御旅行のお支度でしたらお手伝いいたしましょうか」と尋ねた。それで、明朝の父の新潟行きを紀久子は思い出したので離れへ行きかけた足をちょっと停めた。そして、
「いつもの通りですから独りで結構よ」
 と廊下から声をかけて父の居間へ入り袋戸棚からスーツケースを下した。新潟にある鉄工場を見廻りに父はひと月に二三度はこうして出かけるのだった。旅といっても仕度をする程のこともなく、汽車の中で使うタオルにハンカチを余分に二三枚用意しておくだけでよかった。それが母のいた頃からの慣しであった。
「長旅をなさるのに着換えを持っていらっしゃらないと御不自由ではないかしら」
 いつものように父の旅支度をしていた母へ紀久子は尋ねてみたことがあった。
「御不自由などころか新潟のお宿ではお父様の肌着から足袋まですっかり用意が出来ているのですからね」
 こう云って母はスーツケースから眼をあげて何気ない風に庭をみやったが、気のせいか、そのそばめた眼つきには皮肉めいたものがみえた。
「まるでお家のようね。それじゃお父様御ゆっくりなされるはずですわ」
 母の言葉を素直に受けて紀久子が云うと、それまでやわらんでいた母の顔にキリリッと癇の走るのが分り、膝へ重ねた手が妙にそわそわしてきた。そして、何かの用事で廊下を通って行った福を母は高く顔をあげて呼び停めると、「その足袋のはきかたは何んです」と、こはぜ[#「こはぜ」に傍点]が外れて踵の赤い皮膚が少しばかりのぞいているのを指さして甲高く叱りつけた。
 福は慌てて廊下へ膝をつき、こはぜをはめると「申訳ございません」と手をついて下った。
 いつも静かな母をみているだけに紀久子はこの時の唐突な母の振舞いには愕かされたが、少し経つと妙にもの好きな心が動いてきて偸むように母の顔を何度も見なおした。
 それからずっとのちになって姉からおきえさんのことをきかされた時に初めてあの時の母の神経が痛く胸にこたえ、母のつらさがそのままこの身に植えつけられた思いで、おきえが憎いよりはただ訳もなく迂闊なもの云いをした自分が忌々しく肚立たしかった。
 紀久子がはじめておきえさんをみかけたのは、あれは女学校四年頃の何んでも春休みのことで、その朝新潟へ立つ父を見送ってから近所の花屋へ活け花をたのみに行って戻ってくると門の
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