矢田津世子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)全《ま》るで

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(例)はな[#「はな」に傍点]
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     一

 居間の書棚へ置き忘れてきたという父の眼鏡拭きを取りに紀久子が廊下を小走り出すと電話のベルがけたたましく鳴り、受話機を手にすると麻布の姉の声で、昼前にこちらへ来るというのであった。お父様が今お出かけのところだから、と早々に電話を切り、眼鏡拭きを持って玄関へ行くと沓脱ぎの上へ向うむきにステッキを突いて立っていた父は履物か何かのことで女中の福に小言を云うていたが、紀久子の来た気配に手だけをうしろへのべて、
「何をぐずぐずしとる。早くせんか」
 と呶鳴った。
 いつものように自動車の来ている門のところまで福と二人で見送ると、扉を開けて待っていた運転手へ父は会釈のつもりか、ちょっと頷くようにして乗った。そして紀久子が、
「行ってらっしゃいまし」と声をかけると、父はそれへ頷きもせずステッキの握りへ片肘をのせて心もち前屈みに向う側の窓へ顔をむけたなりで行ってしまった。
 父の気難しいのは今はじまったことではない。尤も、母のいた頃は気難しいといっても口に出して女中をなど叱りつけるようなことはなく、いつも何かの不満を眉間の縦皺へたたみこんでいるという風であった。それが、母の亡くなったこの節では気難しい上に癇がたかぶって来て妙にいらいらした素振りさえみえる。お父様もお年を召したせいか気が短かくおなりなすってねえ、などと家のものたちは蔭でひそひそ話しあうのだったが、その実、父のこの頃は年のせいばかりとはいえず、他に何かわけがありそうに誰れも思っている様子だった。
 父の脱ぎすてた常着を紀久子が畳んでいるところへ内玄関に姉の声がして、やがて気さくに女中たちへ話しかけながら茶の間へ入ってきた。今日は子供を置いてきたから長居が出来ない、と前おきをして茶棚をのぞきこみ羊羹のはいった鉢を自分で出しながら、
「飯尾さんは?」ときいた。
 亡くなった母の幼友達で家に永らくいる老婦人のことである。
「母様のお墓詣りに朝早くから出かけなすったの」
「そう。それあよかったこと」
 姉は何故かうすら笑いをした。姉にとっては口数の多い飯尾さんは苦手らしかった。飯尾さんが留守だときいて姉の様子がはずんできた。
「お父様はこの頃どんな?」
 紀久子が黙って苦が笑いをみせると、
「ほんとうに、早く御機嫌をなおして頂きたいものねえ」
 と、姉はちょっと真顔になった。
「御機嫌がなおらないとはたのものが迷惑してよ。福なんか、この頃叱られ通しなので気にやんで夜もおちおちやすめないらしいの」
「そういえば、あの娘顔色がわるかったわ。気が弱いから叱られると思いつめるのね。お父様も……」
 そこへ当の福がお昼のお仕度は何にいたしましょう、とききにきたので姉は言葉を切った。そして鉢の羊羹をひと切れ取って敷居へ手をついている福へ、
「おあがりな」と云ってさし出した。
 福は艶のないむくんだ顔を心もちあげて、
「ありがとう存じます」と云った。重ねた手のひらへ羊羹を受けて直ぐ俯向いてしまったが、寝不足からきた疲れた心にこの唐突の恩恵がこたえたものか、ふいに袂を顔へおしあてて泣き出した。
「さあもういいよ。いいよ。疲れすぎたせいなんだから少し横になってごらんな」
 姉は子供をあやすように福の肩を叩いた。
「失礼いたしました」と福は羊羹をのせたままの手を敷居へついてお辞儀をした。福が下がると、姉は、
「きょうはちょっと相談事で来ました」
 と、膝さきの茶碗を脇へおしやって火鉢へ寄り添うた。それに促されて紀久子も膝を進めた。
「お父様のお世話をしてあげるかたをお呼びしたらと思って。紀久ちゃんは?」と、姉はちょっと窺うように紀久子をみたが、その返事をあてにしている風もなく直ぐに続けた。「この間も誠之助が来た時話してみたのです。それがお父様には一番お仕合せなのですからね」
 姉の口調には紀久子へ相談をもちかけているようなところがありながら、一方、自分の考えをあくまでも押しつけようとかかっているような執拗さが感じられた。気立てが優しいばかりで並の女とかわったところのない姉に、今日は少しばかりちがったところをみたような気がして紀久子はちょっとまごついた。
「お兄さんも賛成なすったの?」
 紀久子は兄の誠之助が一途にこのことに賛成したとは思われなかった。だが、それを疑う前にこの間題にぶつかった時の兄のこわばった複雑な表情を思い描き、ふとそれと同じ表情でいる自分に思いあたってお揃いの面でもかぶっているみたいな自分たちが何かしら可笑しく、頬のへんがこそばゆくなった。
「賛成するもしないも、お父様の御機嫌をなおして
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