ところで紫の袱紗包みを抱えた外出着の母と行きあった。待たせてあった自動車《くるま》へ忙しげに片足をかけ、母はちょっと思いなおした様子で紀久子を呼んだ。
「大事なものをお父様がお忘れになって。紀久子の方が早いようだからお願いします」
 母は袱紗包みを紀久子へ押しつけると、汽車は九時の急行ですから急いでたのみます、と運転手へ念を押した。
 常着のままなのを気にしながらともかく自動車へ乗ってうしろの窓から振りかえると、門を入って行く母のうしろ姿がみえた。余程慌てて帯を結んだものとみえ、小さなお太鼓が曲っていた。
 駅へ着いてホームへ駈けつけると後尾の二等車に父の姿が直ぐにみつかり、「お父様お忘れもの」と声をかけてからはっとして思わず紀久子は息をひそめた。父の横に見慣れぬ庇髪の女のひとをみかけたからである。それがひと眼で紀久子には姉にきかされていたおきえさんだと分った。
 父は振りむくと、
「わざわざ持って来んでも送ってくれてよかった」と云った。父の眼は紀久子の顔を見ず、どこか肩のへんを見ているようであった。汽車が動き出すのにはまだ一二分の余裕があった。紀久子は直ぐにこの場を去ったものかどうかと思いまどった。一刻も早く去ることの方が父の気もちを救うことになりはしまいか。漠然とそんな気がして足を動かしかけると、胸いっぱいに新聞をひろげて読んでいた父が顔だけをこちらへむけて、
「皈ってもよろしい」と云った。このひと言に思いがけず紀久子の心が反撥した。皈ってやるものか。そして、汽車の窓へ近ぢかと立っておきえさんを眺めはじめた。おきえさんはこちらへうしろをみせていた。紫紺色の半襟で縁どられたぬき衣紋のなめらかな襟足がすぐ眼の前にあった。茶縞のお召に羽織は黒の小紋錦紗に藍のぼかし糸をつかった縫紋の背が品よくみえたが、ふと、その紋が家の麻の葉ぐるまだと気付いて紀久子はこみあげてくる屈辱感からさっと顔色を変えた。手をのばしてその紋をひったくってやりたい衝動を感じる。そんな激しい気もちの中で紀久子は新聞に見入っている父の平静な横顔を何かふてぶてしいものに思い、麻の葉ぐるまのおきえと並んだ姿に妙に妬心を煽られていった。
 汽車が動き出すとおきえさんは姿勢をなおすとみせてちらりと紀久子の方をみた。眼が合うと困ったようにハンカチで片頬を抑えて俯向きになったが、その仕草がどうもお辞儀をしているように思われたので紀久子もちょっと頭を下げた。
 皈りの自動車の中で紀久子はとりとめもなくおきえさんのことを考えていた。麻の葉ぐるまが眼さきにちらついて困った。ふと、あれを母がみたらどんなか、と想像してみただけで胸騒ぎがした。母でなくてよかった、こう思って安堵すると急に力の抜けたような気がしてぐったりとなった。

     三

 姉の話によるとおきえさんは生粋の新潟美人で、何んでも古街で左褄をとっていた頃父に落籍《ひか》されたとのことであった。海岸に近い静かな二葉町に家を構えてからは遊んでいても何んだからと娘《こども》たちへ長唄を教えていたが、どうせ退屈しのぎの仕事だったから本気で弟子をとるということをせず、父のいる間は気儘に稽古を休むという風らしかった。
 父が胃潰瘍で新潟の妾宅に永らく臥っていた頃、表むきはリウマチで動けないという母の代りに姉が出向いて十日余りも滞在したことがあった。姉とおきえさんの仲がほぐれていったのはそれかららしい。おきえさんは父について上京すれば何かと手土産を持って姉の家を訪ねるのが慣しになり、姉の方でも母に隠しておきえさんへはあれこれと心づかいをしている模様だった。もっとも姉の心づかいにはおきえさんへというよりは父への義理立てに迫られたものがあった。母との間が疎かった父にしてみれば「お父様っ子」として育った気立の優しい姉が誰れよりも心頼みだったし、それを姉はよく知っていた。そして、父の信頼を地におとすまい、とする心が働いておきえさんへの「おつとめ」になっているらしかった。
 いつぞや、紀久子が学校の皈り姉の家へ寄ると、外出の支度をしていた姉は何やら工合の悪そうな様子をして、これから歌舞伎へ行くのだが、席はどうにか都合つけるから紀久子にも行かないか、と誘いかけたが、そのはずまないものいいがへんに紀久子を拒んでいるように思われたので着換えに皈るのが面倒だからと断ると、
「じゃ、またこんどのことにしましょうね。それにきょうはおきえさんのお供なんですからね」と姉は云い訳をするように気がねらしく云った。そして紀久子が皈りかけると「母様へはこのこと内緒ね」と追いすがるようにして念をおした。姉はおきえさんのことについてはこだわりなく何んでも紀久子へ話してきかせるのだったが、そのあとでおきまりのように「母様へは内緒ね」と念をおすのだった。それは姉の単純な優
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