しい心ばえから出た母への劬《いたわ》りともとれ、また父に対する例の節操から話が母へ洩れるのを警戒しての言葉ともとれた。紀久子はそれを云われる度に曖昧な姉の心もちを疑ってきた。そしていつの間にか自分も曖昧などっちつかずの心で絶えず父と母を窺うようなことをしているのに気付いた。ふと、それが物心のついた頃からの永い間の慣しではなかったかしら、と思いめぐらしてみる。父と母の不和を湛えた暗く冷い空気の中で育てられた自分ら兄妹には共通したこの両親への窺いがあって、それがもはや気質にまでなっているのではないか。こう考えてくると、自分ら親子のつながりがどうにものっぴきのならぬ宿命的なものに思われてきて、暗澹とした気もちに襲われるのだった。
 父と母の不和は従兄妹どうしだという血の近さからくるものが主であるらしかった。その不和が「家のために」というひとつの旧い習慣の下でぶすぶすと燻りつづけてきた。母のいるところでは父は黙りこんでいる。父の前で母は多くを語らない。父の身のまわりのことは紀久子がその代りをつとめるのが仕来りになっている。
 父が家にいる間は母はリウマチを口実にして早くからやすむのがいつもの事であったが、母がやすんでしまうと茶の間には妙にくつろいだ気分が流れてひとしきり話がはずむのだった。居間で書きものをしていた父が時たま茶の欲しそうな顔をして、
「ばかに賑やかだね」と入って来ることがあった。珍らしく落雁をつまんだりしながら兄の馬鹿っ話につい笑いを洩すこともあったが、そんな時の屈託のなげな父の様子をみているとふだんの気難しい孤独な父の姿が哀しく迫ってきて、そのかげにちらつく眼をそばめた母の顔が意地の悪い冷いものに思われるのだった。
 こうして茶の間の話がはずんでいたいつかの夜、果物か何かを取りに厨へ行きかかった紀久子は離れの廊下のところに立っている母に気付いて声をかけようとすると、うろたえて手でおし止めるような恰好をして母は厨へ入っていった。母の立ち姿はうす暗い廊下の明りではっきりとはみえなかったが、前屈みになってこちらを窺っているような気振りが感じられた。
 その夜、遅くなって紀久子は離れの寝間へ入っていった。めっきり弱くなった母の躯が気になって紀久子はずっと母の横にやすみ、夜中に何度か眼をさましては母の様子をみるようにしていた。
 寝倦きたらしい母は蒲団の上へ坐って足をさすっていた。
「こう寒むくてはお小用が近くなってね」
 母は独り言のように云った。
 蒲団の裾へまわって湯たんぽの加減をみていた紀久子は「え?」と聞きかえした。
「いいえね、母様もこの分だと永いことはあるまいよ」
 母は気力のない声でこう云うと大儀そうに紀久子の手をかりて横になった。
 よく母は何かでひがんだような時にこんなに云うのだった。それがいかにも母そのものをおしつけられているように聞えて、紀久子は妙に意地の悪い心もちになって聞き流しにするのが癖になっていた。今も紀久子が黙っていると母はどういうつもりか皺めた顔を何度も手で撫でおろすようなことをしながら、
「母様がいなくなったら家の人たちは大っぴらに騒げますからね。ほんとうに、永い間気づまりな思いをさせてすまなかったこと」
 と誰れにともなく云った。声がへんに潤んできたようなのでそっと顔をみやると筋ばった手が眼のあたりを覆うている。何んと云うたものか、と紀久子はちょっと惑った。そして「それは母様の思いすごしよ」と、つい慰めるように云ってから、これではいけない、と気付いた。母が待っているのは別の返事である。それが分ると口をきくのが億劫になってきた。いつものように母の枕元に坐り徐かに髪を梳いてやると、やがて顔から手を落して静かな寝息をたてはじめた。眼頭の窪みに溜った白く光る涙の玉をみていると何んとも云えない程哀しくなってくる。泣きたいようである。けれど、その感動には何やら乾いたかさかさしたものが交っていて、それが紀久子の泣きたい心を阻止している。そして、白く光る母の涙をじっと視詰めながら、その涙を羨やましい、と思った。
 父と姉の結びつきを知っている母が、姉とおきえさんの交渉に感付かないはずはなかった。姉が隠しごとをしている。その不満がしぜん飯尾さんへ洩らされる。姉が皈ったあとなど、母と飯尾さんは火鉢ごしに額をつきあわせるようにしてひそひそ話しあっていることが度々であった。常は無口な母もおきえさんのこととなると余程癇にさわるとみえて、その声音が気色ばんでくるのが分る。聞き手になっている飯尾さんの尤もらしい表情には母を憫れむような恩恵を施すような微笑が優しく動いている。
「たかがそれ者[#「それ者」に傍点]上りの女ではありませんか。相手になさるな」と片手を振って母の話を払いのけるような恰好をする。母の興奮が少しずつ
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