静まっていく。いわば、母と飯尾さんは一種の奇妙な夫婦のようなものであって、悲歎の多い母を飯尾さんが優しく介添いしているという風であった。こうした二人の関係が二十年近くもつづけられている。飯尾さんは母と同郷の福島のひとで良人に死別してからはずっと独りを守っていたが両親に亡くなられると身寄りのないのを不憫に思うて父が進んでひき取ったとのことであった。今では蔵の中のことも厨のことも一切飯尾さんまかせで、留守にされた時などもの探しをするのにちょっと困ることがある。
 父が新潟へ行っている夜には母はいつものやすむ時刻になっても忘れたような顔で茶の間に坐りこんでいた。その傍では飯尾さんが母の幼い頃の思い出話をはじめ、あの頃はおのぶさんも前髪を垂してこんな輪っこ[#「輪っこ」に傍点]に結うていた、と両の親指と人差指でこさえた眼鏡のようなのを頭の上へのせてみせると、
「まあ飯尾さんは」と母は面映い仕草で飯尾さんを小突くようにした。それからひとしきり飯尾さんの手振り身振りで幼友達の噂話などが出ると母はその頃へ還ったように浮き浮きとしてくるのだった。そんな二人の様子をみていると、いかにも母の寂寥を慰めてやるために父が飯尾さんをあてがったように思われてきて、それが母に対する父らしい劬りかもしれない、という気もちさえ起ってきた。そして、母が亡くなってからは何かしら手持ち無沙汰げに火鉢のところに坐っている飯尾さんをみかけたりすると、一そうそんな気がしてくるのである。

     四

 母の一周忌がすんで少し経つと姉がおきえさんを迎いに新潟へ旅立った。前まえから姉は内祝については何度も紀久子と打ち合せをしておいたのに立つ前日にはまた電話口へ呼び出して、表向きはどこまでもお父様のお世話をする人としてお迎えするのだから、そのつもりでほんの内輪の支度にしておくように、と念をおすのだった。正式に籍をいれるというのではなく、おきえさんはやはり今まで通りの父の妾としての資格で家へ迎えられるらしかった。それが何か淫らがましい雰囲気をはこんでくるようで厭だったので、いっそ母としてお迎えしたら、と姉に相談をもちかけると、
「そんなこと可笑しいわ。おきえさんはお妾が似合いなのだから、あれでいいのよ」
 と笑って、相手にしようともしない。母としてお迎えするなら他に立派な人がいる、と姉の笑いは暗にこう含んでいるようであった。世間体があるとはいえ、父が籍をいれてやらない心もちもうすら分った気がして紀久子はおきえさんの立場が憫れなものに思われてきたが、ふとこの心を眺めおろしているとりすました自分に気が付いてちょっと厭な気分になった。
 おきえさんの着いた夜は出入りの仕出し屋から料理をとり寄せて内輪な会食ですませた。披露をかねる意味あいからその席へごく近い親戚の人たちをも呼んだら、との話も出たけれど大げさなことは真っ平だ、と父はいつになく声を荒らげるのだった。そのあとで何やら工合わるそうにして座を立つのだが、やがて、陽当りのいい居間の縁ばなにしゃがんで籠のカナリヤを人差指で嚇かすようなことをしている父の屈託のない姿がみうけられたりすると、茶の間の姉と紀久子はつい頬笑みかわすのだった。
 おきえさんを迎えてからの父の気難しさはその性質を変えたようにみえる。癇がたかぶっていらいらしていたのがどこかへ吸いこまれたように消え去って、ただ仕くせになっている眉間の縦皺がのこっているだけである。時に、この縦皺もひとりでにひらいて、めっきり光沢をました頬のあたりに明るい微笑のゆれていることがある。こうした父をみかけた時に、紀久子の裡にいつも浮んでくるひとつの想いがある。――この仕合せそうな父をずっとみているとそこから亡くなった母の寂しそうな姿が迫ってきて父への憎悪が今この胸へこみあげてくるにちがいないと思う。今々と待っていてもやっと思い浮んだ母の姿には悲痛の感動がともなわず、一向父への憎しみが湧いてこないばかりか却ってそのやわらんだ明るい父の顔から不思議にほっとした長閑な気分になるのだった。気が付いてみると母が亡くなってからずっと、このほっとした気分がつづいている。何か神経のゆるんだような感じであった。
 母がこれまで使っていた離れの二間がおきえさんの居間にあてられた。
「須藤はこれまで芸一方でやってきたのだから家庭のことは不得手だろう」
 朝風呂をすませて縁へ出てきた父が、離れの手すりにもたれて池の鯉へ麩を投げているおきえさんをみやりながらこう独り言のように云うているのを傍で紀久子は聞いていたことがあった。父はおきえさんをいつも須藤と呼んでいた。その、紀久子へきかせるための独り言は何か非家庭的なおきえさんを弁護しているとも思われるし、また、そうしたおきえさんの立場を当然認めてやっている、いや、お
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