さんの、心もちを寂しく思いやった。
こうして、飯尾さんがおきえさんに接近していくにつれておきえさんは紀久子からだんだん遠のいていくように思われる。この感じから、自分の眼のとどかないところでひそひそ話をしている二人を想像しては妙に神経をいら立たせて監視するような眼つきで二人をみている自分に気付くことがあった。
いつか、紀久子が外から戻ると、いつも茶の間に坐りこんでいる飯尾さんの姿はなく、福にきくと蔵の中だというので行ってみると、おきえさんと二人で長持ちの中の片付けものをしているのだった。わざわざ自分の留守を狙ってそんなことをしなくとも、と思ったので少々苦い顔をしてみせると、おきえさんは申訳なさそうに、
「わたしの荷物を少し入れさせて頂こうと思いまして」と頼むようにちょっと会釈した。蔵の鍵は飯尾さんにまかせてあるとはいえ、何かの用で蔵へ入る時はいつも家のものが一緒であった。それが母のいた頃からの慣しだったのである。それを飯尾さんが勝手に鍵を使っている。いい気になって増長しているようで、かなわない気がする。飯尾さんとすれば、おきえさんは家の人なのだからその人のお供で蔵へ入るのは何んとも思ってはいないのだろう、いつもの顔で甲斐がいしく荷物の世話をやいている。
その夜、紀久子は父の居間へ呼ばれた。
「紀久子も嫁入り前だし、これからはいろいろ支度の方のこともあって忙しくなるだろうから、家の事は須藤にまかせてみたらどうかね。いや、須藤もいつまでああじゃ困るし家庭のことを追々と覚えてもらわんといかんからな」
予期しない言葉であった。紀久子がまごついて返事をせずにいると、「この間から思いついていたんだが……」と、父は思い出したようにつけ足した。それが何か今の言葉を弁解しているようにきこえる。
「お父様の仰言る通りでよろしいですわ」
しばらくして紀久子は云ったが、眼の前の父の姿がよそよそしい遠いものに感じられるのはどういう訳かしら、と呆んやり考えていた。
父やおきえさんや飯尾さんの姿がひとかたまりになってずっと離れたところに感じられるようになると、紀久子の心はしきりに兄を求めていった。兄だけがこの世で身近い唯一人だと思う。そう思いこもうと努め、兄へ追いすがろうとしている自分の姿に気付いた時は哀しい。もしかしたら父よりももっともっと自分には遠い兄であるかもしれぬのだ。時として、この哀しみが胸を痛めつけてくる。
或る陽暮れ時、紀久子が二階の部屋へ行くと、兄は電灯のついていない薄暗い窓べりの籐椅子にのけぞっていた。「兄さん!」と声をかけると、「うん」と懶げに返事をしたなり振りむきもしない。窓に近づいて顔をのぞきこむとその眼がじっと遠くの何かを視詰めているようである。視線を辿っていくと、庭を越えた向うの離れの窓へ落ちていく。その窓からは湯上りらしいおきえさんが肌をぬいで鏡台に向っている様がのぞかれる。兄の眼はどうやらそれへ執着しているらしい。明るい電灯の下におきえさんの豊かな白い肌が冴えざえと浮き立ってみえる。化粧がすんだのか、高く手をあげて髪へ櫛をいれている。手が動くにつれて盛りあがった乳房が生まなまとした感覚をそそりたてるようである。
「須藤さん奇麗だなあ」
兄が呟くように云った。思わずも言葉が口を洩れたという風である。
「まあ、兄さんは、いつもここからみとれていたの」とつい厭味をきかせて云うと、
「ばかな奴だなあ」
と兄はひょいと躯を起して電灯をつけた。てれてか眉間へ気難しげに縦皺をきざんだ兄の顔はふと紀久子にいつかの父を思い出させた。
夜分厠へ起きた紀久子が用を足して部屋へ戻りかけると、これも厠へ起きてきたおきえさんと離れの廊下のところで出あった。緋鹿の子の地に大きく牡丹を染め出した友禅の長襦袢に伊達巻き一本のおきえさんの姿は阿娜めいて昼間のおきえさんとは別人の観があった。寝乱れてほつれた髪が白い頸すじへまつわり、どうしたのか顔は少しはれぼったくみえた。裾を慌ててかき合せるようにして紀久子へちょっとお辞儀をするような恰好で厠へ入っていった。不思議に眼だけが吸われるようにおきえさんの色彩についていって厠の戸口で止まると、そこから離れの部屋を窺うように、いっ時息をひそめた。微かに父の寝息が洩れてくるように思われた。だが、もしかしたらそれは自分の呼吸の激しさかもしれない。冷めたくなった足裏に促されて紀久子は自分の部屋へ入った。ふと自分がこの間まで寝間にしていたその部屋に父とおきえがやすんでいる。――妙にそれへこだわって、どうしてもねむれない。想像が、鉛のように鈍った頭の底からつぎつぎと現われてくる。そして、この想像の跳梁に身をまかせている自分を忌々しいと思いながらも、どうしようもなくそこから抜け出せないのだった。
その翌朝はへんに
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