父を避けたい気がした。それでいて、まともからずけずけと眺めてやりたい気もした。いつものように父の外出の支度をしているところへ朝風呂をすませた父がきて、「新聞は?」ときいた。舌がこわばって咄嗟には口がきけず、黙って父をみたままでいると、
「何んだ?」と父は眉間の縦皺を深めたいつもの気難しい顔になった。きょうはその縦皺にいつもの父の厳しさは感じられず、好色めいたものの動きをみたように思った。不興げに父はそこを立去ったが、紀久子はふと父を眺めている自分のそばめた眼つきに気が付いて厭な気分になった。自分の中に母をみたと思ったからである。そして、この母は疾うの昔から自分の中に生きていたように考えられてくる。すると、自分の中の母に気付いたのは自分よりも父の方が早かったのではあるまいか、という気がしてきた。
 父の誕生日とおきえさんの披露をかねた小宴があるというので姉はまた忙しく家へ出入りするようになった。こんどは余り粗末なことも出来まい、と気づかうのである。仕出し屋をよんでは料理の相談をする。買物をまかされて飯尾さんは出かけて行く。おきえさんが家のことをするようになってからは飯尾さんは何かにつけてその相談役という資格である。張り切った何か愉しそうなものが終始飯尾さんの顔には漲っている。
 座敷の方の片づけかたを頼まれた紀久子が金屏風を取り出しに福をつれて蔵へ入って行くと、薄暗い光線なので足元が解らなかったのか福が火鉢につまずいて転んだ。狭い階段を中途まで登っていた紀久子が「大丈夫かい」といって駈け降りると、膝をすりむいたらしい福は向うむきになって唾をつけていたが、紀久子の声に急に顔へ袂をあてて泣きはじめた。
「まあ、福は泣いたりして」と紀久子もしゃがんで起しにかかると、
「何んですか、亡くなった奥様のことが思い出されまして……」と福は肩をすぼめて一そう激しく泣いた。その潤んだ声がふいに胸にこたえた。母の落ち窪んだ眼頭に溜った涙の玉が初めて哀しく思い出されてきた。どうして、今まで自分は泣けなかったろう。それを不思議に思いながら、今は理窟なしに、ただ母を思うて泣けるのだった。
 父の誕生日の当日になった。十数人の親戚の人たちが招ばれた。紋付の羽織袴の父と、これも裾模様をあでやかに着飾ったおきえさんが正座に並んで坐った。兄が新らしい母として簡単におきえさんを紹介した。紀久子は、これはへんだ、と思った。隣りに坐っている姉を突ついてそっと訊くと、
「どうもねえ、お父様はおきえさんの籍をいれたいらしいのよ」
 と、姉も浮かない顔である。
 酒がまわってだんだん座が乱れてきた。銚子を持ったおきえさんが慣れた手つきでひとりひとりを注いでまわった。酔いがまわったのか耳根をぽっと染めているおきえさんは初いういしくみえた。紀久子の前へきた時、
「さあ、おひとつ」とおきえさんは杯を取りあげて勧めたが、ちょっとためらって銚子を下へ置くと膳越しに上半身を紀久子の方へかたむけて、
「あの、わたし悪いところはどんどん仰言って頂きたいのですけど。わたし、紀久子さんの仰言ることでしたらどんなことでもききますわ」
 と伏眼になって云った。声が少し慄えていた。やがて徐かに眼をあげて紀久子をみたが、その眼の中に涙をみたような気がして、紀久子は意外な感じに打たれた。
「奥さん、お酌だお酌だ」
 向うの席から親戚の老人が大声で呼んだので、おきえさんは紀久子へ会釈をして立って行った。その会釈には憫れみを乞うような、愛情を求めるようなものがあった。
「余興は出ないのかね」
 ざわめきの向うで酔った誰れかが叫んだ。
「どうです、お父さん、ひとつ須藤さんの喉を聞こうじゃありませんか」
 兄が隣りの父へもたれかかるようにして話しかけていった。父は兄を肘で押し返して、
「ばかな!」と低く叱りつけた。



底本:「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「矢田津世子全集」小沢書店
   1989(平成元)年5月
初出:「日暦」
   1935(昭和10)年11月号
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2008年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全10ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング