か。愛情を堰止める何かだろうか。しきりと母の顔が脳裡にちらつくのはどうしたものだろうか。――紀久子の思いはこんな風にとつおいつしていた。

     五

 以前には億劫がって夜分はめったに外へ出たことのない父が、この頃はおきえさんをつれてよく寄席へ出かけるようになった。時たま、飯尾さんも誘われる。そんな時はうれしさで日頃の節度をなくした飯尾さんが妙に浮き浮きした調子で紀久子や女中たちへ冗談を云いかけた。そして父のあとからおきえさんと並んで歩きながらも着物の柄あいが地味すぎるからもっと派手好みにした方がいい、とか、色がお白いから半襟は紫系統がお似合いだ、とか独りで喋り立てては独りで感心したりした。それが付きまとわれるようなうるささではあったが、おきえさんは寄席といえばへんに飯尾さんへこだわるようになって「お誘いしてもよろしいでしょう」と眼顔で父に頼みこむのだった。そんなことがきっかけでほぐれていって、買物だというてはおきえさんと飯尾さんは揃って出かけることが多くなった。
「おきえさんもやはり苦労をなすったかただけあってよく細かいところへお気がつきなさいますねえ。お小遣いに不自由しているだろうって、こんなに下さいました」
 月末に近い或夜、父から家計をまかされている紀久子が出納簿を調べているところへ飯尾さんがそわそわして入ってきた。そして帯の間へ挟んであった紙幣《さつ》を出してみせて、ちょっと拝むような手つきをしてから大切そうに四つに折りたたんで蟇口へ納いこんだ。
 母がいた頃は母がその小遣いの中からいくらかを月々飯尾さんに与えていた風だったが、もともと飯尾さんが家をたたんだ時にはかなりの纏った金を持っていたという事だったし、不自由なく食べさせておくだけで沢山だからと母は云うのだった。それで、紀久子が家のことをするようになってからは小遣いらしいものを飯尾さんへやったことがない。それには、ただ母の言葉を守っているというだけではなく、買物を頼めばその中から小銭をかすめ取る癖のある飯尾さんを紀久子は知っているので普段の小遣いに事欠く程のこともなかろう、と意地悪く見過しにしている気もちがある上に、貯金へは手を触れずに、いつも物欲しそうに人の財布をのぞきこんでいるような飯尾さんの卑しさが嫌いだったからである。
 紀久子の家ではこの五六年来、正月元旦には姉夫婦に兄、紀久子が父の居間へ呼ばれて財産分配の遺言めいたことを父からきかされるのがきまりになっていた。これは、父が自分の老齢を気付かっての万一の時の用意と思われる。ここ一、二年は戦時景気で父の鉄工所は好調を示しているので子供たちへの分配高もだんだんにのぼってきている。父はずっと前から自分の世話をしてくれるものに三万円を残してやりたいと姉には洩していた風であったが、今年は子供たちと一緒におきえさんも呼ばれて更めて父からこの話をきかされた。それがどこから飯尾さんの耳へはいったのか、「おきえさんは果報なかたですねえ」と探るように姉や紀久子へ話しかけてくるのだった。それでなくともこの元旦のひと時は飯尾さんにとっては一年中での緊張の極点であったらしい。何かしら落付きがなくなり、用ありげに茶の間と厨の間を往き来しながら居間の気配に聞き耳を立てている様子であった。そして、父の居間から出てきた姉や紀久子をもの問いたげな眼つきでちらちらとみやるのだった。飯尾さんにしてみれば、もうこの家の人も同然な自分にも何分の御沙汰があってしかるべきものを、と心待ちにしているのも無理からぬことであろう。年取るにつれて身寄りのない孤独感が迫れば迫る程金に執着していく飯尾さんの気もちが紀久子には分らぬではなかったが、それへ同情する心の動いてこないのをどうしようもなく思うのである。それで、今もおきえさんから小遣いを貰ったといって自分へみせにきた飯尾さんを前にしても、紀久子は単純な心でそれを悦んではやれず、そのみせびらかすような素振りさえ一種の自分への示威のように思われてくるのである。
「紀久ちゃんにはおきえさんの気心が分らないはずがないのに、あんまり劬りがなさすぎますよ」
 いつぞや、姉はこう窘《たしな》めるように紀久子へ云ったことがあった。何んでも、おきえさんが紀久子へ手土産にした品を、「子供だましだ」とか、「田舎くさい柄あいだ」とか云って事々に紀久子がけなしていたというのをおきえさんが耳にして、そんなにお気を悪くしていらしたとも知らず、ただ紀久子さんに悦んで頂きたい一心で自分はそれをしていた、と涙ぐんで姉に話したというのであった。それが飯尾さんから洩れていったものだとは分っていたが、姉へわざわざ自分の気もちを説明する程のこともあるまい、と紀久子は黙っていた。そして、この頃、外へ出ても前のように手土産を持ち皈らなくなったおきえ
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