せた。ふと、ゆるんだ懐ろに剃刀を見て、
「あっ!」
と、鋭く叫んで、矢庭に下駄を投げつけた。
仙太は剃刀を思い出した。懐ろへ手をやった。馬車に逃げ込もうとした女の髪を引っ掴んで、ひき倒した。女は手で自分の喉を抑え、うつ伏せになろうと努力した。白い刃が閃いた。鮮血が女の顔に一線をひいた。と、どどっと流れて水溜りを赤く染めた。男の腕が振り上がり、女の頸に突き刺さった。女は低く叫んだ。うつ伏せになり動かなくなった。
犬は狂ったように吠え立てた。二人の廻りをぐるぐる廻っていた。
お高は、現在《いま》、達者で、秋田市の茶町に、居を構えていると聞いている。あの事件以来この町にも居づらくなって、間もなく、菅原一家は夜逃げ同様引き移っていってしまった。せんだって、この町の助役の奥さんが、県下へ出たついでに立ち寄った折りの話によると、お高の父親の孫市は、ブローカーとは名ばかりの、下駄べらしに出歩くばかりが能だというし、この年寄りを抱えて、お高は、お針の師匠をつとめるかたわら、手内職ごとで、どうにか生計をたてているという。
奥さんと話している間、お高は、袂で片頬を隠すようにしていたが、大きな疵
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