た今では、いつまで未練を残していても詮ないことだった。
「役場の伊藤さんさ土産コ買うの忘れたべしちえ。さあさ、困った」
 誰それへは何々と指を折って数えたてていた姑が、鏡の中ではたと当惑した顔になった。久しぶりで帰る郷里の親類知己へは二十幾個の土産を用意したけれど、さて数えたててみると落した名前も二三あった。それは途中で買うことにしたが、明朝の仕度だの車中の食事のことだので姑はやはり心も落ちつかぬらしい。座席がとれぬときの用意に新聞紙を忘れないようにと注意もした。
「明日の晩は温泉さ入れるえ。足コも何もびっくりするべ」
 姑は温泉行を楽しみにしていた。同じレウマチスで難渋していた裏の家王の老主婦が、先年信州の霊泉寺温泉へ湯治に行ってからというものぴったりと痛みがとまったという。その話を聞いていた姑の一生の念願に、全度帰郷の途次寄り道をすることになったのだった。
「足コが軽くなったら、なんぼう楽だべ。もうはあ、極楽だえ」
 姑も清子も温泉へ行くのは初めてだった。姑は弾んでいるようにみえる。明日の楽しみをあれこれと話しかける。せっついて、しょっちゅう話しかける。まるで聞き手の清子を取り逃し
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