混って荷造りをしたり番頭の帖づけを手伝ったりして、いっ時も休むことなく働きつめるという風だった。この父に、たったひとつ、妾宅なしではすまされぬという困った癖があって、それも二、三軒を見廻り歩くのが慣しになっていて、本宅では殆ど寝泊りをするということがない。母や姉たちと母屋に住み慣れている伊予子は滅多に酒倉や店をのぞくということがないので、常の日は父を見かけることがなかった。正月とか何かの儀式のあるような時にだけ、父は家に戻っている。いまだに町人髷を頭から離さぬ父は、結いあげたばかりの鬢の張った艶々しい髪がいかにも美くしくて、紋服に袴をつけた恰幅のよい姿は大家の旦那然とした貫録を示していた。そんな盛装の父しか記憶にのこっていない稚い伊予子は、父というものはいつも紋服に袴をつけているものと決めていた。だから、ごくたまに、平服の父を母屋で見かけたりする時は、それを直ぐには父だと信じかねた。何かよその人を見るような感じで、それでいて、妙な懐しさから父が厠へ立つのにも一緒にくっついて行った。夜分は、母に抱かれてやすむのが習慣になっている伊予子は、よく母のしのび泣きに醒されて、自分もまた声をあげて泣くことがたびたびであった。
「さあ、いい児だから泣くのではありませんよ。母さんが悪かったこと」
 箱枕に額を伏せて泣いていた母は袖口でこっそりと眼を拭くと、起きなおって伊予子を抱きあげるのだった。母の瞼は腫れぼったくなっていて、薄暗い行燈の光りに、ほつれた髪が額に寂しい翳をつくっていた。その顔から、少女の敏感さで、伊予子には母の泣くわけがうすら分る気がした。
「母さん」
 呼びかけて、伊予子は無性に哀しく、母の胸に顔をおしつけてしくしくと泣き続けるのだった。ただ、訳もなく紋服姿の父を悪い人だと思った。そして、母の膝にゆすぶられながら泣きじやくっていた顔がおたばこぼん[#「おたばこぼん」に傍点]に結うた小さな頭をかくんと仰向けて、微かな寝息を立て初めるのだった。
 或る日のこと、番頭相手に母がこんな風に云っているのを伊予子は聞いたことがあった。
「旦那の身を案じて御意見を申しあげようと云うて下さるお前さんの心はようく分りますが、これは少し早まったことかと思います。旦那の放蕩はお仕事を励ますためのもので、決して、ただのあそびとは考えられません。いわば、あの放蕩がお店を繁昌させているわけで
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