女心拾遺
矢田津世子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脂肪《あぶら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「石+(朔のへん−屮)/(墟のつくり−虍)」、第3水準1−89−8]
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一
常は無駄口の尠い唐沢周得氏が、どうしたはずみか、この数日来妙に浮きたって、食事の間も駄洒落をとばしたりしては家人を笑わせたりする。もともと脂肪《あぶら》肥りの血色のよい膚《はだえ》が、こんな時には、磨きをかけたように艶光りして、血糸の綾《あや》がすけてみえる丸っこい鼻の頭には、陽ざしに明るい縁の障子が白く写っているように見える。前歯の綺麗に残っている口を大きく開けて、わっはっはっと身をもみながら高笑いをする仕草など、どうみても古稀に近い人とは思われず、この若やぎようを家人は奇異の眼ざしで眺めやるのだった。
唐沢製鋼所の社長としての繁忙な地位を、二年前から女婿の横尾氏に譲って、今は気楽な閑居の身でありながら、元来、動きまわることの好きな性分がこの老齢になっても納まらず、朝は従前通り九時きっかりに出社して、午すぎてから戻ってくる。これという用事が待っているわけではなく、ただ、永年の習慣から出社をしてみなくては気がすまないのである。自動車で送られて社長室へ顔をみせ新社長の相談に乗ってやったり、電話を取り次いでやったり、それから社内を一巡して自動車で帰って来る。いわば、この出社は老人にとっては一種の運動のようなものであった。それが、この頃では興がのって工場の方までも見廻るという調子である。
「そんなに御無理をなすっては、お体にさわりましょう」
老夫人の伊予子が宥めるようにこう云うのを、唐沢氏は大きく手を振って、
「なあに、これしきのこと。儂の体はまだ老耄れてやせんぞ」
と身をもんで、わっはっはっと高笑いをするのだった。
唐沢氏がこんなにも上機嫌なのは稀らしいことである。老夫人の伊予子には、それが嬉しいというよりも、何かちぐはぐな不安な感じが先きにくる。一体に明るい性分ではあるけれども、身をもんで高笑いをするというようなことは、これまでに無いことだった。裡に盛りあがってくる活動力の愉しさが、つい笑いになってこみあげてくるという風で
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