すから、そのお為をようく考えてあげて下さい。たのみます」
逸る番頭へ母は手をついて詫びいるような容子であった。人前では父の非行をあくまでも庇いたてるというのが母の常である。その非行を自分の罪にして引け目な思いで暮している。伊予子の見てきた母は、一生をこうして暗く鬱っした思いで終ったのだった。
その母を、今、年老いた伊予子は自分の裡に見るのである。母を不憫に愛おしむ気もちが、しぜん自分へも注がれる。けれど、この気もちの中には何やら歯痒いような憤ろしいような感情が含まれている。そして、これを払い落そうとする心が、知らず知らずに自分の裡から母を追い立てているのだった。
同じあそび[#「あそび」に傍点]をするというても、父の場合は妾宅を泊り歩くのが慣しであったが、唐沢氏は妾宅をつくるということをせず、気にいりの芸者へ凝るという風である。
「俺はお茶屋あそびをするが、玄人相手じゃあお前も妬くわけにはいかんだろう」
時折り、冗談めかしく唐沢氏はこんなことをいう。その口吻には、嫉妬を起してもらっちゃあ此方が迷惑をするからなあ、と暗に夫人を窘《たしな》めておいて、その心に釘を一本ぶちこんでいるようなところがある。
「俺のあそびは仕事のひとつだ」
始終これを聞かされている夫人にとっては、このあそびの相手へ妬情を抱くということは、いわば、良人の仕事へ妬情を抱くと同じようなものである。そして、この良人の「仕事」が妻のあらゆる干渉を食い止める。けれど、一方仕事の圏内では天下御免の良人が誰にも憚からずのうのうとあそんでいられる。ただ、夫人への義理めいた心から、唐沢氏は息子を夫人へあてがっておく。若い頃からリュウマチに苦んでいる夫人を見慣れているので口癖のように、
「お前は病弱だからなあ」
という。それを耳にするたびに夫人は引け目な思いをする。自分は病弱なのだから良人に外であそばれてもしようがない、と諦める。
「慶太郎をばひとつ医者に仕立てて、お前を看取らせることにしよう」
もの優しく、こうも云うてくれる。その劬りが夫人にはこの上なく嬉しいのだ。そして、その劬りにほだされた夫人の心は、いつか、良人の放蕩を大目に見るように馴らされてくる。やがて、その劬りで放蕩が棒引きされ、優しい言葉を聞かされるたびに、すべてを忘れて感謝の念に浸るのだった。
もともと製鋼所をひきつがせたい嗣子の慶
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