知らせで、子供の母親も一緒だと分った。
 子供からもよく手紙がきた。大きな字で「オバサン」と書き出してあった。ぎんは物足りなく寂しかった。まわらぬ口で「母チャン」と呼んで、涎れの顔をこすりつけてくる俊雄が思い出された。から[#「から」に傍点]乳をよろこんで吸うときの、乳房へあてがう小っちゃな手の感触が、悲しいほどの疼きで思い出された。そして「母チャン」と、なんべんも口の中で云ってみるのだった。
 俊雄からは手紙のたびにねだりごとだった。ランドセルがこわれてしまったの、東京鉛筆が欲しいの、遠足へ行く小遣いを呉れだのと、ひっきりなしだった。ぎんはわくわくしながら、手紙をよむとすぐに支度をして送ってやった。クレヨンの図画が届くと、会う人ごとに見せびらかした。「わたしンとこの子はね……」と、眉をひらいて、ありったけ自慢した。通いの娘たちは、またおぎんさんの「わしンとこの子」がはじまったと目まぜして、クスクス笑い合うのだった。
 クレヨンの図画には汽車と、もう一枚林檎が描いてあった。ぎんはそれを自分の部屋の壁に貼って、朝晩ながめくらした。
 輸入物の品不足で「あたりや」が小僧を廃し店を閉めるほどの不況に追い込まれた頃、一時ぎんも身の振りかたに迷ったことがあった。経師屋夫婦は、もっと割のいい奉公口を探してやろうと云うのだったが、ぎんは他へ住みかえる気がしなかった。ただ心にあったのは、もう一度、大阪の工場に帰ってみたいということだった。思案しぬいた揚句、ぎんは監督へあてて願いを出してみた。友だちが郷里に帰ってかたづいてしまった現在では、その古株の監督が唯一の知り合いであり、頼りであった。
 機械へ向ける気持だけは、いつになっても変らなかった。針の間からゆるやかに流れ出てくる真っ白い大布の模様レースを思い出しただけで、無性に心が弾んだ。ぎんは、もう一度、針を扱いたいと希った。舌のさきで、ちょいちょいと糸を舐めてみたいと思った。指のはらで機械の埃りをはらい、眼を皿にして忙しく引き添い歩きたいと思った。レース機械へのこの執心は、ぎんのもっているただ一つの積極性であった。しかし、願いは入れられなかった。事変後、製品の統制で現在は機械の台数も以前より少くなっている。総レースを織り出す特製のほうは昨年から使用を停止していると、監督から懇切な報告があった。
 主人夫婦から許しが出て、ぎんはミシン内職にかかりつめるようになった。通いの娘たちは親しんで、よく働いた。仕事がだんだん立てこんで、ぎんはミシンにかかったなり応待したり製品の受け渡しを指図したりした。ニコニコ顔が利いて、取引先きの受けもよく、愛嬌者だと評判もよかった。
 ミシンの手を動かしている最中、ふと、眼前に広い立派な西洋間がひらける。大きな額や綺麗な飾り椅子がある。高い窓がいくつもいくつもあって、それにはみんな真っ白いレースのカーテンがかかっている。小模様の織目の細かい上等品である。ふんわりと揺れはためく裳裾の房がパタパタと鳴る。揺れるカーテンにコスモスの花が咲いている。淡紅い今にも消えそうな花が、白い花むらの中にぽつぽつと咲いている。花の波がゆさゆさと揺れる。裳裾の房がパタパタと鳴る。すると、カーテンがふんわりと揺れはためく。
 ぎんには、そのレースが織目の細かい上等品だということも、小模様が一つ一つコスモスの花だということも、たくさんの襞がふんわりと揺れうごくさまも、ありありと見えるのである。裳裾の房が耳の中でパタパタと鳴り、手を伸ばすと揺れはためくカーテンのやわらかな感触が伝わってくるのである。通りを走る電車の響きや人声やミシンの騒音の中に、その真っ白いカーテンだけがふんわりと音もなく揺れるのだった。
 蚊帳も団扇もしまいこんで雨戸を閉め切る時節となった或る夜、ぎんは寝床の中で俊雄の手紙を読み返していた。難かしい字が多くなって、このごろは判じよむのに骨が折れた。「伯母上様」と書き出しから、もう漢字であった。中学に上るとえらくなるものだと、ぎんは感心した。友だちはみんな万年筆を持っているのに、僕だけ買ってもらえないと愬えてあった。お父さんが今病気でお医者にかかっていると知らせてあった。僕は赤ん坊のお守りをしたり勉強したりで、とても忙しいと附け加えてあった。
 ぎんは、あした早速万年筆を買って送り出そうと思った。俊雄の喜ぶ顔を想像した。しかし、浮んでくるのは、涎れあぶくを吹いているよちよち歩きの男の子である。すると、まわらぬ口で「母チャン」と呼ぶ可愛い声がきこえてくるのだった。
 この春生まれたという赤ん坊へも何か玩具を送ろう。それから子供の父親へも見舞いの金を送ろう。貧乏して、どんなに困っているだろうと、ぎんは眼をうるませた。
 そして、カキカキした大きな字の手紙を頬に敷いたまま、いつのまに
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