鴻ノ巣女房
矢田津世子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)郷《くに》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あら[#「あら」に傍点]
−−
隣りの紺屋の婆様から、ぎんはこんな昔語りをきいた。
或る山の中に男が一人小屋がけをして住んでいた。働いても働いても食うに事かく有様で、おのれの行末を考えては心細がっていた。或る晩大風があってほうぼうの大木が倒され畠の粟や稗がみんな吹きこぼれて、あっちこっちで助けてけろ助けてけろという叫び声がする。男は行きつけの旦那衆の手伝いをして家に帰って寝たが、夜中にどこからか助けてけろ助けてけろというかぼそい叫び声がきこえる。はて何処だべと思いながら夜を明かした。朝になって山へ柴刈に行ったが、まだゆうべの助けてけろ助けてけろという声がするから、だんだん尋ねて行くと、きのうの大風で倒れた古木の洞に住んでいた鴻の鳥が、木の間に体がはさまってどうすることも出来ずにキイキイ鳴いているのであった。男は苦労してその木を伐り倒して鳥を助け出し、傷んだ羽根を撫でてやったが鳥はつかれていてうまく飛べない。やっと飛び上ったかと思うと、ばさばさと地に落ち、飛び上ったかと思うと、地に落ちる。男は稼がなければならぬので思いを残しながら振りかえり振りかえり立ち去った。鳥は涙を流してその後ろ姿を見送っていた。或る雨あがりの日、男が山へ柴刈に行くと、若いきれいな女がやっぱり柴刈をしていた。女は笑いかけて、お前に行き会いたかったと声をかける。お前は誰れだと云っても、女はただ笑ってばかりいて、せっせと柴を採る。夕方になって男が帰りかけると女もついてきた。俺はこんな貧乏者だからお前のような女子に来られては困ると云っても、拝むようにしてどうか置いてけれせという。そしてふところから紙捻を出して、その中から米粒を二粒出して鍋に入れて煮ると、鍋が一杯になって二人で夕飯を腹いっぱい食べた。女は昼間は山へ柴刈に行くし夜は機を織ったりして休む間もなく働いている。だんだん日がたつと女は家にいて朝から晩まで機を織るようになった。そのうち二人の間に女の子が生れ、三年たつと女はやっと機を織り下して、良人に、これを町さ持って行って売ってきてけれせと云った。男はなんたらこんなもさもさした毛織物なんぼの値があるべえや、それも売れればよいがと心配顔をすると、女はこれは私の精をこめて織ったものだから三百両であったら売ってもよいという。町の大店の旦那様の処へ行くと、大そう喜んで家の宝にするとて言い値で買い取ってくれたので、男は驚いて大金を持って帰って来た。そして、この織物のおかげで、ひどく裕福に暮せるようになった。或る夜、その女が云うには、娘ももう食べ物をやっておけば大丈夫だから私に暇をくれろという。男は驚いて何して今頃そんなことを云うのかと尋ねると、これまで私もずいぶん稼いだけれど今では精も根もつきはてたから元の性に還りたい。実は私はいつぞやお前に助けられた鴻の鳥である。なぞにかして御恩返しをしたいと思って私の代りに一人娘を残して行く。そして、あの機を織る時、私の体の毛はみんな抜いて織ったので今ではこのようになったというて、赤裸になった体をみせ、わずかに残っている風切羽で山のほうへばさばさと飛んで行った。
今年四十二歳のぎんは、この昔話をきいた晩、泣けて仕様がなかった。枕につっ伏して声をしのんで、ながいこと泣いていた。
ぎんがこの「あたりや」に女中奉公してから、もう、十年あまりになる。「あたりや」もこの六本木通りでは相当に名のきこえた唐物屋だったけれど、ここ数年来輸入物の仕入れがむずかしくなったところから、とかく商いも不如意がちになり、それかといって今さら軍手や割烹着類を店ざらしにするような小商人になり下がるくらいならと依怙地な老主人は店を閉ざしてしまったが、今ではその店内にぎっしりとミシンをならべて、ぎんが頭になって請負のミシン作業に精を出している。ほんの手内職のつもりではじめたことが、いつのまにか本職になってしまった。この家の一人娘の遺品だという古ミシンをつかって、片手間に近所の人たちの簡単服だのエプロンだのの賃仕事をしているうちに、出入りのクリーニング屋から話がついて、衛生服や医務服の下請をするようになった。ぎん一人では手もまわりかねるので、中古を買いこんだり賃借りをしたり、いまは通いの娘たちも汗みずくの忙しさである。
年寄りの主人夫婦から一切をまかされているぎんは、ミシンにばかりかかりつめているわけにはいかない。年寄りが喜びそうな惣菜をこしらえたり、お針をしたり、洗濯をしたり、鼠捕りをしかけたり、市場へ買い出しに行ったり……。市場で、ぎんは「負けれせ」という呼び名で通っていた。ひね生姜一つ買うにも
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング