いて、今は堺のほうの旅館で働いているということまで分った。子供はどこに預けておいたのか、間もなく男が引き取って来た。ようようつかまり歩きをし出したばかりの男の子で、俊雄と呼ばれていた。
 男が大酒飲みだということもだんだん分った。酒癖が悪くて喚き出すと手に負えなかった。三白の眼をすえ「馬面《うまづら》」、とか「シャグマ」とかいって、ぎんを呼びたてるのだった。小間物の行商もとかく怠けがちだったが、そのうちどこで仕入れるのか信州綿というのに肩代りした。こんどの行商は気骨が折れる、一軒一軒で口上だからと、捨吉は不機嫌だった。玄関に上りこむなり荷をひろげて、山繭の屑糸からとれた丈夫な絹綿だと云い、足でふんづけたり手綱によじってみせたりして、「これこの通り!」と買手へ請合顔して見せるのだった。綿の中味は人絹屑の加工物をつかい、どうせ知れたまやかしものであった。どこで手に入れたのか、知名の人の名刺を勿体ぶって財布から取り出して見せ、こんなに支持してもらっているからと、買手の度胆を抜いてかかる。名刺には子爵男爵と肩書のついたのもあった。それほど儲けにもならず、寝食いの日が多かった。
 工場の友だちが遊びにくるたびに、ぎんは肩身の狭い思いをする。はじめっからあんたの貯金が目あてだったんだからと、その友だちは親身になって忠告した。今のうちに別れないと飛んだことになるとも嚇かした。しかし、ぎんは別れる気がなかった。男は仕入をすると云っては、あらかた金を持ち出した。家をあけることが多くなった。たまにくつろげば酔って「おい、シャグマ」と喚き立て出て行けがしの愛想づかしだった。
 どのような男の仕打も、ぎんには我慢が出来た。子供のために堪えられたのである。子供はぎんになついて、可愛かった。まわらぬ口で母チャン母チャンと呼びなれていた。ねむくなると、涎れの顔をぎんの胸にこすりつけてきた。そしてから[#「から」に傍点]乳を吸って機嫌よく寝入った。ぎんはこの子が可愛くってたまらなかった。朝から晩まで、子供のことでいっぱいだった。人に会いさえすれば子供自慢だった。
「うちの子は、まあ、なんて早智慧なんでしょう。けさもね、鳩ポッポを教えたらもうすっかりおぼえこんじまって、さあ、俊ちゃん、小母さんにポッポッポを唱って上げれせ。」
 子供が涎れの口をとがらせて覚束なげに唱い出すと、ぎんはもう眼をなくして武者ぶりつき、子の顔や手や出臍のおなかにまで口をつけてぶうぶう吹いてやるのだった。
 或る日、めずらしく捨吉が子供を抱いて銭湯へ行った。帰りの遅いのが気になって覗きに行くと、とっくに上ったという。濡れた手拭いとシャボン箱が番台に預けてあった。それっきり父子は姿を見せなかった。親類だという夫婦者がきて、世帯道具の一切を荷車につけて行った。子供の母親と縁が切れていなかったと初めてきかされ、ぎんは途方に暮れた。子供を思って泣いた。
 しばらく独り暮しをしていたが、友だちに勧められて上京することに決心した。東京で経師屋にかたづいているその友だちの叔母を頼って行くことになった。レース工場へは義理が悪くて帰れなかった。
 郷里《くに》者の経師屋は、姪という振れこみで、ぎんを「あたりや」に世話した。時々、親類顔で覗きにきては、暮し向きの愚痴を並べ、小遣いを借りて行った。それもだんだん狎れっこになって、月末には無心を欠かさないようになった。
 誰れにでもぎんは従順だった。人の言葉に従ってさえいれば間違いがないと信じ切っていた。そして始終心の中に誰れかを立てておかないと気がすまないのである。子供のころは校長先生や酒屋の旦那様だった。工場の機長だったこともあるし監督だったこともある。捨吉父子はいっとう長く心の中にいた。そして今は「あたりや」の主人夫婦ほど有難い人はないのである。
 別れて十年あまり、俊雄はこの春中学へ上ったという。父子の者はいま広島の海江田市に住んでいる。ぎんが「あたりや」に落着いて一年ばかりたつと、捨吉から手紙がきた。そのころはまだ堺にいた。工場の友だちに居所を訊き合せたということが分り、相変らず愚痴だった。ぎんは男の涙もろさを思い出した。おろおろ声が聞えるようだった。貧乏している子供が可哀そうでたまらなかった。そして、有り合せをすぐに為替に組んで送ってやった。それが癖になって、今では子供の学費という体裁で毎月せびられている。
「お前さんのようなお人好ってあれあしない。赤の他人にそんなに貢いでさ。笊に水だよ。」
 主人夫婦はどうにかして、送金を思い留らせようとして、いろいろに意見を云った。ぎんはニコニコして聞いているだけだった。
 広島へ行ってからの捨吉は家屋売買のブローカーのようなことをしていた。手紙には子供と二人っきりの佗び暮しだと書いてあったが、工場の友だちからの
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