馳走になったのを覚えていますから」
と、俊男が葛岡氏へ遠慮深く斯う前おきをして話し出した。「お宅へ届け物がすんで、あそこの路地を出たところで寿女さんに会ったんです。あんまり偶然だったもんですから、僕はホウって大きな声を出してしまったんです。寿女さんは、せかせかしてすぐに逃げそうにしたんで、僕は、どうしたんですか、って追っかけたんですが、そこまで用達にきたとか何んとか言って、寿女さんはとっとと行ってしまいました。あんなに小っちゃくっても、歩くの随分疾いんですね。せむしの早足っていうけど……」
と、言いかけて口を噤んだ。彦松が笑いかけて、併し、見廻わして直ぐに抑えた。
「わたしも、伝通院の前通りで見かけたことがありましたがね」
と、葛岡氏が言った。「去年の暮でしたかね。家内が、どうもそうじゃないか、って言うもんですからね。いや、家内には聞かせてあったんです。それが、声をかけようにも、どうにも、隠れてしまったもんで……」
葛岡氏は笑《え》みを湛えた。「元々、人みしりをするようなたち[#「たち」に傍点]でしたからねえ。それにしても、寿女さん、あの辺に知り合いでもあったんでしょうかねえ」
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