「突然でなんですけれど、お寿女さん、もし手すきでしたら暫らくの間貸して頂けないでしょうか。女中が郷里へ帰ってしまったものですからね、困っていますの」
龍子はこんなふうに切り出した。そして、真っ赤に面を火照らせて、お茶の支度にうろうろしている寿女のほうへ、笑窪の顔をみせて言った。
「ねえ、お寿女さん、あたくしたち姉妹《きょうだい》なんですもの、これからは、せいせい、あたくし、お役に立ちますわ」
嫂は、兄と目顔で相談しあっていたが、一応、親戚共に計ってからということに話をはこんだ。
龍子は、お稽古のひとたちを待たせてあるからと早々に帰って行った。
嫂は稀らしく燥ゃいで、寿女の肩をはたいて、
「寿女さんは果報者ねえ。あんなえらい方に目をかけて頂けるなんて」
そして、真っ赤になってうろうろしている寿女の顔を、とんきょな眼つきで覗き込んだりした。
翌日、寿女は嫂に附き添われて、青山の奥住の家へ行くことになった。加福の師匠から貰った檜の小枠だけは、自分で抱えて行った。
わたくしの手元にある最近の婦人録に、声楽家奥住龍子女史の略伝がこんなふうにのっている。
ソプラノ、明治音楽学園講
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