なく両の肘を突っ張って顔を枠の上にのめりこませて通している。わたくしの眼は、一瞬、その位置に寿女さんを視て、はっと弾んだ。くるっとしたその眼射しで、こちらをみて、にっこりしながら癖の、あぶらのしみた髪に針をちょいちょいとなすりつける。いまにも立って来るかと待たれるその気振りは、しかし、つぶつぶの汗を光らせた新参の弟子がこちらを見て、針の手をおいて辞儀をしたのであった。
「梅雨《つゆ》前から感冒にかかっていたようだが、抑えていたとみえて、とうとう肺炎でね」
師匠はこう言うて湯ざましの湯を緩っくりと急須へ注ぎ入れた。
机の上の写経へわたくしは眼をやった。その経文のくだりは般若心経のようでもある。先刻の銀三の沈んだ物言いを思い合わせて、わたくしにはだんだん寿女さんの訃が現実感をもって迫ってくる。写経に至るまでの師匠の心の裡も漸う汲まれて、筆差しにささった筆のまだ墨の乾き切らぬ穂先を眺めているうちに、不意に、哀感がそこから衝いてきた。
隣りの喫茶店からレコードのブルース調の唄が鳴り出した。
「きょうはまたひどく照りつける……」
師匠は顔をさしのべて空を覗いた。此方の低い板塀を越して隣家
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