しは上へ通った。
加福の師匠は写経の筆をおいて机から離れたところであった。眼鏡のぐあいをなおしながら、
「この頃は、こんなものに頼らんと筆もつことも針もつことも出来んようになった」
と、ひっそりと笑われた。眼性のよさを誇っていられただけに、その眼鏡に負けた面《おも》は佗しく見えた。
師匠の写経をみかけるのは初めてのことだったし、そのことから妙に心が急き立てられるまま尋ねた。
師匠は、しばらく黙していられたが、
「寿女さんが亡くなられたのを御存じなかったかな」
そして、また、しばらく黙された。
「あさってで七七忌になる、早いものだ……」
自身へきかせる独り言のようである。銀三のはこんできた茶盆を引き寄せ、湯かげんをさしのぞいて、茶の支度にかかられた。
わたくしは寿女さんの訃を信じかねて、そのことをもう一度たしかめてみたく師匠を見遣ったが、もの恬《しず》かなその姿には声をかけるさえ臆せられた。隣室の銀三を見ると、長い枠を前にして一心に針をとおしている。それと並んで年少の弟子が二人、ひとりのほうはわたくしには新顔であった。鼻の頭に汗のつぶつぶを光らせて、針の持ちようもまだぎごち
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