がして足を停めかけたが、思いかえして、隣家の師匠宅を訪うた。
銀三が出っ歯をむき出しにして迎えて、師匠は只今お写経でございますが、と言う。簾屏風ごしに、机を前に端然と坐していられる後ろ姿が見える。上り框に腰をおろして銀三のすすめる冷えた麦茶で喉を潤しながら一別以来の挨拶を小声で交わしあった。栃木在出身の銀三は、師匠を慕ってここの内弟子に住みこんでから、もう、十数年にもなるのであった。
「お師匠さんが、もういい加減に独り立ちしてみたらどうか、って仰言って下さいますが、なんせ、まだまだ心許なくて、こうやって玉子の殻をくっつけたまんまお傍にぬくもっている始末です」
銀三は奥へ気を兼ね、声を低めて、なお重ねた。
「わたしは生れつき不器用な質《たち》でして、連之助さんや寿女さんの足もとにも寄れないんですから、あの人たちの二倍は年季を入れなけあ駄目だと思っているのです。寿女さんといえば、あのひとも、まあ、折角の手をもちながら惜しいことになりまして……」
妙に鼻づまった沈んだ声音にふと衝かれて、わたくしは「え」と問いかえした。この時、奥から声がかかったので、銀三は座をひき、招じ入れられてわたく
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